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2018-04-17

New York City / 「ニューヨークの危険な思い出」


先日、店のスタッフが雑誌「ポパイ」を買ってきてくれた。「ニューヨーク退屈日記」というタイトル。昔から「ポパイ」は「パリ」とか「ロンドン」とか世界の大都市の特集を組むけれど「ニューヨーク」が一番多い。アメリカの文化を紹介するところからスタートした雑誌であるから、やはりそうなるのかもしれない。

最近人気のショップやギャラリー、カフェなど、ページをめくるたびに今のニューヨークが現れる。ニューヨークは紛れもなくアメリカ合衆国最大の都市であるが、その歴史は約200年とヨーロッパの都市に比べるとはるかに新しく、その街並みもやはりヨーロッパの都市とは違い独特なものがある。

そもそもアメリカという国の歴史は、ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸への入植から始まるが、元々はインディアンなどの先住民がいたわけである。入植してきたヨーロッパ各国の人間たちが、土地や人(奴隷)を奪い合い、本国と揉めた末に「独立」って何か変だなという思いもする。元々暮らしていた先住民が、勝手に入ってきた人間たちから「自分たちの土地を守るために独立する」というならわかるのだが。

歴史は得意な分野ではないので、あまり大したことも語れないけれども、何千年という歴史の流れの中で見ると、移住した人間がその地で街を作り、国を作るというのは、世界のあちこちで繰り返されてきたことであり「ニューヨーク」という街も、歴史のほんの一コマなのかもしれない。

「ポパイ」を読みながら、初めて「ニューヨーク」を訪れた時のことを思い出した。おそらく1996年あたりだったと思う。

たしかその時は、社長と私と、そして盛岡にあるセレクトショップ「ガルフ」のオーナーと3人で行った。「ガルフ」のオーナーはファッション業界では知らぬ人はいない、というくらい有名な方だった。もう10年以上も前にお亡くなりになってしまったが、当時の盛岡を「日本一ファッションに敏感な街」と言わしめた伝説の人である。

とくに「インテレクチュアルギャラリーガルフ」では、日本で最初に「クロムハーツ」を取り扱ったことで有名だ。私たちが「ニューヨーク」に行った時、ちょうど「クロムハーツ」のオンリーショップを作っていた。「モコ」という名の黒人のスタッフがいろいろと案内してくれた。彼は、両手、首、ベルトまわり、と全身ににジャラジャラと「クロムハーツ」を身につけていた。今の価格なら1000万円は軽く超えているだろう。

「クロムハーツ」も欲しかったが、自分には高嶺の花だった。「クロムハーツ」を買うよりは、日本ではなかなか手に入らない商品を探すことの方が楽しかった。ネット通販がまだ主流ではないあの頃は、日本で買えない商品を自分のお店に置くことがちょっとしたステイタスだった。

30代前半だった自分は、ファッションに貪欲だったので、いろんな雑誌を読み漁り情報を収集した。当時、いわゆる「裏原ファッション」が流行りだした頃で、「藤原ヒロシ」がレアなスニーカーや雑貨を紹介するたびに、必死に探したものである。

「藤原ヒロシ」がリコメンドした商品の中に「携帯ラジカセ」があった。その代表が「SONY-SPORTS ウォークマン」と「Panasonic ショックウェーブ」だった。どちらもイエローとオレンジを使った配色で、海外向けだったのか日本ではなかなか入手できない商品だった。

私は、その2モデルをどうしても店に置きたくて、いろんな電器屋を回った。洋服の情報は雑誌で仕入れていたが、電気製品の情報は全くなかった。それでもさすが大都会ニューヨーク。街の至る所に大きな電器屋はあった。

ただ、初めて訪れた「ニューヨーク」。 どの辺りに、どんな人種が住んでいて、どんな商売をしているのか、そういった土地勘は皆無だった。「いろいろ見て歩いて、安いところで買えばいいだろう」とタカをくくっていた。

とある電器屋に入った。目的のモノがずらりと並んでいた。比較的手頃な値段が表示されていた。日本で販売されている半分ほどの値段だろうか。私はそこでまとめて買うことにした。店員たちは気さくな感じだった。確か6〜7個ほど購入したと思う。クレジットカードで決済をして店を出た。

しばらく歩いてなんとなく不安な感じがしたのでクレジットカードの控えを見た。血の気が引いた。金額がまるで違っていたのだ。2倍以上の金額になっていた。私は買った店に戻ろうと思ったが、とても英語で説明出来る気持ちの余裕はなかった。

私はどうしたらいいかわからず、大きなショップのある通りを彷徨っていた。その時、目の前に「ブルックスブラザーズ」の店が現れた。昔から知っているアメリカンブランドの店で心を休めようと思い、店に入った。

たまたま私の近くに、スーツをビシッと着こなした恰幅のいい黒人の男性スタッフがいた。彼は私に話しかけてきた。驚いたことにカタコトではあるが日本語だった。少しの間だが、日本で暮らしたことがあるのだという。確か軍人経験者だったと記憶している。私は何か嬉しくなり、しばし彼と談笑した。

しばらくして、私は先ほどの出来事を思い切って彼に話してみた。もしかしたら、彼にとっては迷惑な話かもしれない。仕事中でもあるわけだし。すると彼は「よし、一緒にその店に行こう。少し待っててくれ」と言った。私は彼と一緒に、先ほどの店に向かった。軍隊上がりの彼の体格はガッチリしていて、アメリカンヒーローのように見えた。

さっきの店に着いた。店に入るとさっきの店員たちがいた。もはや気さくな顔には見えなかった。のちに思ったがプエルトリカン系の顔立ちをしていたような気がする。「ブルックス」の彼が、私から聞いたことを、そのまま説明していた。すると「なんか問題でもあるのかい?」というような表情で店員が、私が買ったのと同じ商品を手に取り、そして見せてくれた。

私は愕然とした。商品の値段は、すでに高い値段のシールに張り替えられていた。私は完全にカモにされボッタクられたのだった。「ブルックス」の彼も大体のことを掌握したらしく、それでも店員たちにクレームを言っていた。すると店員が「しょうがねえなあ」という表情をして、ラジカセを一台こちらに渡した。しかし一台もらったところで、ボッタクられたままなのには変わりない。

「ブルックス」の彼がさらに何か言っていた。もはや私には彼らが何を話しているのか全くわからなかった。いきなり店員の一人が「じゃあ、ちょっと奥へ来いよ」と言った(ようだった)。「ブルックス」の彼は私に小さな声で言った。「これ以上深入りすると命が危ない」

20年以上前のことだ。彼が「深入り」などという日本語は使うことはなかったかもしれないが、ニュアンスはそうだった。私は彼の言うことを素直に聞き入れて、その店を出た。私は、ひどく怖いような、情けないような…そして嬉しいような、妙に感動した気持ちになって、彼にお礼を言った。

確かあのとき彼の名刺をもらい、日本に帰ってからお礼の手紙を出したと記憶している。しかし彼からの返事もなかった。あれから2回ほど、「ニューヨーク」を訪れたが、「ブルックス」の彼に会うことはできなかった。私の手元には、すでに彼の名刺はもうないし、彼の名前も覚えていない。

あのとき以来、私にとって「ニューヨーク」という街のイメージは、怖く…そして人の温かさを感じる街となった。

NYの写真は少ない。オリジナルのスタジャンとティファニーで買ったキーホルダー。キーホルダーは現役。

「ニューヨーク退屈日記」のページをめくっていたら、「ブルックスブラザーズ」の記事があった。「ブルックス」の彼の名前は忘れたが、あの恰幅の良さと温かい笑顔は今でもはっきり憶えている。きっと、アメリカのどこかで元気に暮らしているはずだ。

「あのときはありがとう。Thank You! Mr.Brooks!」


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