弘前のラーメン ①
「弘前のラーメン」
「岩木山ヒルクライム」を目の前にし、ジャンクなテーマで気が引けます。が、これ、ブログとしてはかなり難度の高いジャンル。おそらく多くの人が語ってきたであろうし、今もラーメンを食べながら話題にしている人もいるはずです。ファッションについては長くやってるので、それなりに語れますが、「食」については自分の舌が試されるようで自信はありません…
さて、青森県人はラーメン好きが多いらしい。もちろん自分もです。弘前市もこの10年ほどで随分と多くのラーメン屋さんができました。弘前のラーメンといえば、濃厚な煮干の「たかはし中華そば店」が有名ですが、ひと昔前までは弘前も青森も昔ながらのあっさり中華が主流だった気がします。
今では濃厚煮干のラーメン屋さんの方が多いのでは?と思うくらい。おそらく、「たかはし」の味に魅了された人たちが、次代の「たかはし」になろうとして切磋琢磨したからなのかもしれません。
おかげで私も「たかはし」に行く機会が減りました。いつ行っても混んでましたから、他に行くラーメン屋さんが増えたのは嬉しいこと。最近では「文四郎」あたりが「たかはし」に負けないくらい濃いのを出してるので、よく行きます。
また、飲んだ次の日なんかは、「おお田」の鯛出汁ラーメン。身体に染み入ります。他にも、「〇鐵二代目」のなみおかバージョン(濃いやつ)、行列必至の「井上家」、オリジナリティ抜群の「R-Camp」、老若男女に人気の「中みそ」、「なかた屋」のつけ麺、「にぼshin」のでかいチャーシュー、「十五屋」の鶏出汁…キリがありませんね。
しかしブログでラーメンのことを書くと、知ってるとこ全部紹介しないと、みたいになっちゃうので正直書きにくい。とっつきやすい話題ではありますが、少々ハードルが高いので、ここでは今の弘前のラーメン事情ではなく、自分自身通ってきたラーメン遍歴に触れてみようと思います。
「おまえのラーメン遍歴なんてべつに興味ねーよ」 なんて言われそうですが、なつかしいラーメン屋さんも出てくるかもしれませんのでお付き合いください。
私は鰺ヶ沢に生まれ育ちましたので、昔の弘前のラーメンは知りません。「弘前のラーメン」というタイトルなのに、のっけからすいません。
私の幼少期、鯵ケ沢でラーメンといえば、「晩翠軒」と「番場食堂」です。とくに「晩翠軒」は、なんかもう自分にとってもスペシャルな食堂でした。もちろん出前もあるのですが、あの食堂に行って食べるのが最高。鯵ケ沢舞戸にある正八幡宮参道の入り口にあるというロケーションも最高。店内は1階と2階がありましたが、ここは2階が最高。だって注文したものが、小さなエレベーターで上がってくるのです。幼心にこのシステムがもう最高でたまりませんでした。
個人的にはここのカレーライスが最高に好きでした。何とも言えぬ、当時流行ったのかもしれませんが、家庭では味わえないレストランの味とでも言いましょうか。ここのカレーの味はほかでは味わうことができなかった気がします。
ラーメンの話でした。もちろんラーメンは昔からあるあっさりの中華そばです。たまに青森から遊びに来る叔母さんが、「ここの中華を食べるのがいつも楽しみでさ~」と言ってましたので、けっこう美味しかったのでは、と思います。
そうそう、出前もよくとりましたが、ラーメンの出前といえば、どんぶりに被せられたあの「赤いフタ」。あれ、妙にワクワクしました。見てワクワク。開けるときもワクワク。今もあるのかな?あの「赤いフタ」。
残念ながら「晩翠軒」今はありません。「番場食堂」は場所を変えて、今でも元気に営業しています。
さて、小、中と鯵ケ沢で育った自分ですが、高校で五所川原に行ったあたりからラーメンの好みも変わり始めます。おそらく世の中でも札幌をはじめとした、「味噌ラーメン」がブームになってきた頃だと思います。
五所川原で味噌ラーメンといえば、「ファンテン食堂」 なんとも風変わりな名前ですが、名前の由来はわかりません。ググっても出てこなかった。とにかく味噌ラーメンが人気で、学生にはいろいろサービスしてくれた記憶があります。本格的な味噌ラーメンは当時としては珍しかったのかもなあ。
そして高校への通学路にあった「味の一八」 どんなかんじだったが、もう記憶がありませんが、ラーメン屋というよりはカレーや炒飯もある中華食堂みたいなお店だったと思います。ただ、なんかすげ~好きなラーメンがあったような気がするのだが、思い出せません。もう37~38年前だもんな。五所川原にお住まいの方、情報求む。
「ファンテン食堂」も「味の一八」も今はありません。寂し。
高校を卒業したあと、仙台にて1年修行をして、弘前大学に入りました。ここから、私の自炊生活の始まり。自炊といっても作るのは炒飯やスパゲッティくらい。(当時はまだパスタとは誰も言ってなかった)
最初の2年は、当時ですでに築30年以上かという、壊れそうな木造ボロアパートに住んでいました。その名も「サンダ館」 三角屋根で建物全体が蔦に覆われています。よく言えば洋風。電気、ガス、水道代、すべて込で18000円。あまりにボロいので壁をミントグリーンにペンキで塗りました。大家さんが褒めてくれたくらい。
共同台所にはゴキくんがよく出ます。いつだったか、向かいの部屋に住んでいるS先輩の部屋で麻雀をしていて、明け方なんか作って食べようかなあ~と思い、台所に行ったとき。ガスコンロのところから、チロっと動くものが見えたので覗いてみたら….ゴキが20匹くらいワサワサと動いていて。私は声も出ませんでした。
そんなかんじのアパートでしたので、正直なところ飯は外の方が多かった。で、ラーメン屋のお話になるわけですが。書いてみて思いました。昔って、今のようなラーメン専業のラーメン屋さん、あまりなかったような…ラーメンって、どっかの食堂で食べることの方が多かった気がします。
食堂といえば、もう文句は言わせません。トミハンこと「富田飯店」です。あ!弘前のラーメンの話題に入る前に、もうこんな長文になってしまった!
タイトルと内容が一致していなくて、申し訳ございません。苦し紛れに、お気に入りのラーメンショットを一枚。
次回は1980~1990年代後半にかけての弘前のラーメン(自分史)について書こうと思います。(ということは、またも3部作か)
コメント14件
「店内に噴水があるのでそれをウリにファンテン食堂」と聞きました。私は現認してませんが。
文中に出てきたお店全くわかりませんし行ったことがありません。ほとんど外食らしい外食をしないからでしょうか?でもただ一軒最後に出てきた「富田飯店」はよく知ってます。父の事務所にいた頃すぐ近くだったのでよく出前取ってました。あそこのお母ちゃんものすごく働き者で+個性的だったなぁ〜!なつかいいっす!
両親が共働きだったので、土曜日のお昼は隣りの食堂で好きな物を注文でしてました。もちろんツケでした。当時の小学校は土曜日半ドンでしたので、そういう意味で楽しみでした。おそらく自分史上初めてざるそばを(1人で)食べた時、つゆをそのまま蕎麦に掛け、ざるを通ってテーブルにつゆが広がる….というのを今でも憶えています。たまにサスペンスの殺人シーンで頭部の床から血が広がるシーンとそのざるそばのシーンが重なります。
すみません。
ラーメンの話しじゃなくて、単なる食堂あるあるになってしまいました。
帰省すると、番場食堂の中華を必ず食べてます!あそこのチャーシューが好きです!
本間さんが思い出せないラーメンとは違うかもしれませんが。音楽部員でたまに食べに行っていたラーメン屋で、駅前に建物は汚いけど美味しいって評判の「新勝楼」というラーメン屋さんがありました。けどメニューはラーメン屋というよりは中華料理屋さんみたいな感じでした。評判通り建物は古くて、土間は土のままだし、茹でるのは土間に煉瓦で作り付けの薪釜、麺は全部手延べで麺類は何でも美味しかったような気がします。
ファンテン食堂、栄作食堂、亀の家、新勝楼が昭和40年代が主流でしょう。名前が忘れたがカメノヤ洋品の奥の「もやしそば」王華飯店「みそらーめん」あとは飲んだ後のロータリの屋台などがありました。よく友人達とラーメン談義をすれば中華ざるの話になります。昔はざるそばは緑色していました。亀の家が緑色そばとらーめんが半々それから中華ざるの黄色になった気がします。友人曰く山形にも中華ざるがあるとか?昔のらーめんを食べたいなら青森のいりしめに行っています。
「ファンテン食堂」→ ファウンテン食堂?
店主が泉さんだったりして (^_^;)