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2017-07-21

隔絶された120分 と 忘れられない一日


今年のお盆は、あまり休みが取れそうにない。なので、鰺ヶ沢にあるお墓の掃除に行くことにした。

あわよくば、西海岸をツーリングしたいなと思い、車にチャリを積む。二度寝をしてしまったので、出発が遅れた。鯵ケ沢から「轟(とどろき)駅」まで行ってみようかなと考えていたが、「千畳敷」までになりそうだ。

途中、コンビニに寄ってアイスコーヒーを買う。最近のコンビニは、100円コーヒーに随分チカラを入れていて、コンビニ間の競争も激しいようだ。その分、味も美味しい。ほんと缶コーヒー買わなくなったな。

ここで気付いた。コーヒーを飲みながら、携帯を見ようとしてトートバッグの中を探すと、「無い」…携帯が無いのだ。どうやら自宅に忘れたらしい。

う~む。すでに出発して20分以上。取りに帰ってる時間はあまりない。「どうしようかなあ~。今日は店も休みだし、緊急の連絡はないと思うけど…」

なんとなくモヤモヤと迷いながら、車を走らせた。でも家族から急な連絡があったらどうしよう。出張に行ってるスタッフから連絡があったらどうしよう。などと、妙な不安を感じながら。「ここまできたら、諦めよう。今日は帰るまで携帯ナシで過ごす」そう決めた。

私たち誰もが携帯電話を持ち始めて10年くらいにはなるだろうか。スマホが主流になって、5~6年。もっとなるか。通勤の途中でも、昼休みでも、寝る直前でも、常に携帯を触り見ている。そんな世の中になった。もちろん自分も例外ではなく。

常に情報が欲しいのだろうか。常に誰かと繋がっていたいのだろうか。あらためて考えてみたことはないが、確かに便利だし、多くの恩恵に授かっている。でも携帯があるがために、何かに束縛されたり、怯えたりしている自分があるのも確かだ。

 

 

ふと、流れていたカーラジオで、DJがこんな便りを紹介していた。

「私の友人のことです。彼は自分の友達が出世すると、それをすごく妬みます…」みたいな内容。確かにこんな世の中、そういう風に思う人間もたくさんいるだろう。

自分はどうだろう。友達が出世したら…妬むだろうか。いや喜ぶと思うけどな。でも子供の頃は妬んでた気がする。友達が、高価なラジコンカーを持ってたり、でかいミヤマクワガタを飼ってたりしたとき。

さすがにこの歳になると、あまり妬むことってなくなった気がする。大学の友達で、今では校長先生になっているヤツもいるし、家業を継いで社長になっているヤツもいる。それってスゴい立派だなあとは思うんだけど、特別それを出世とは感じない。

出世って何?あんまり好きな言葉じゃないな、今になって思えば。なんか他人と比べてるような言葉。自分なんかは大学は出たが、結局好きな洋服を仕事にして30数年。経営には携わっているけど、経営者ではないし。高校や大学のときの友人と比べようとしても尺度がないし、比べること自体あまり意味のないカンジがする。

そんなよくわからないことを考えていたら、いつのまにか鰺ヶ沢に着いてしまった。鯵ケ沢も大きな道路が完成し、風景が変わったなあ。とりあえず、親戚でもある「ホテルグランメール山海荘」へ。

 

 

ちょうど台湾から来ていたお客さんをお見送りしているところだった。女将さんは相変わらずニコニコすてきな笑顔。

お腹が大きくなってました。秋には生まれる予定だとか。楽しみですね。

車を置かせてもらい、チャリを取り出す。そのまま、お寺へ直行。お寺といっても、ご住職はいません。お盆のときだけ、いろんなお寺からお坊さんが来てくれるようだ。チャリのまま、お墓の前へ。

 

 

「またその格好で来たのが!」親父のあきれた声が聞こえてきた。今日は特別お供えも持ってきてないので、掃除だけ。たっぷり水をかけて、ゴシゴシ洗い流す。クモの巣も取り払い、だいぶキレイになった。

でも少しさみしいかな。せめてお花だけでも買ってくればよかった。少しだけ申し訳ない気持ちになりながら、手を合わせ。「また来るはんで」

お墓をあとにして、101号線を走る。けっこう暑いが、風が気持ちよし。ケイデンス100の30km/hと、自分にしてはいいペースで走れている。このカンジなら「千畳敷」までは行けそうだ。

「千畳敷」の手前にある「北金ヶ沢」に着いた。「日本一のイチョウの木」なんかで有名な町。この町のはずれにある集落。そこで撮った写真が、じつは私の「ツール・ド.ツガル」のルーツだ。

少し寂れた漁村の小屋の前を、五能線が走る。鯵ケ沢で育った昔の自分の姿を、重ねていたのかもしれない。お気に入りの場所に着いた。

 

 

コンクリートの支柱にロードバイクを立てかける。ジムニーみたいな廃車がある。「HINO」のようだ。そういえば、ここで何回か写真を撮ったけど、列車には一度も遭遇していない。いや、一度遭った。でもそのときは写真は撮れずじまいだった。せっかくだから今日は列車が通る光景を撮ってみようかな。と決めた。

そう決めた瞬間から、自分にとって不思議な時間を過ごすことになった。

本数の少ないローカル線とはいえ、最近は人気の五能線。10分か20分。すくなくても30分も待てば列車はくるだろう。普通電車でもいいし、リゾートしらかみでもいいし。別に貨物列車でもいい。少し向こうに踏切があったと思う。列車が近づいたら鳴るはずだ。

すぐ近くに自販機があった。スポーツドリンクを買って喉を潤す。列車の来る気配がないので、少し港の方に降りてみる。天気はいいが、遠くは霞んでいて岩木山はよく見えない。小さな神社がある。少しだけシャッターを押す。

 

 

でもいきなり電車が来るといけないので、すぐ設定をもどす。絞りと露出。そして連射のモードにしとかないと。

そんなことを繰り返しながら、30分ほど過ぎた。あれ?来ないなあ。撮り鉄ではないし、列車の通る時間など、調べてもいなければ調べる手段もない。

そう、今日は携帯を持っていないのだ。携帯があれば、時刻表を調べられるし、暇な時間をSNSで潰せるのに。もうあきらめて「千畳敷」に行こうか。行って、美味しい焼き魚定食でもいただこうか。そんな思いがよぎる。

そして、あえて考えた。今、自分は列車を待っている。いつかまた来れる場所なんだから、次の機会でもいいのかもしれない。いや、でもここまで待ったのだから、とことん待ってみよう。それに携帯を持っていない、すべてから遮断された時間。今、自分は世の中から隔絶されているのだ。こんな機会は今後ないだろう。

そう思った自分は、どんなに時間が経っても列車が来るまで「ここ」にいることにした。そして、今の「自分」について考えることにした。

というのも、ツーリングをしているときなど、じつはいろんなことを考えている。キレイな景色の中を、楽しそうに走ってはいるが、ひとりで走ることが多いので、いつもいろんなことを考えている。

毎日毎日、日々の暮らしの中で、何かにモヤモヤしながら生きている自分がいる。でもなにかとせわしない毎日の中では、それを解消できぬまま、一日を終わらせてしまう。そのモヤモヤの正体はなんなのだろうか?列車が来るまでの間、考えてみることにした。

 

 

世の中、不満も不安も抱えずに暮らしている人も中にはいるかもしれないが、ほとんどの人が何かを抱えて生きているはずだ。経済的な不安だったり、人間関係の不満だったり。健康的な不安もあるかもしれない。

自分はどうだろうか。30代の頃には、個人的な事情で経済的に不安な毎日を送っていた時期もあった。もちろん今現在も決して楽観できる状態ではないが、なんとか明日も食えそうではある。

身体も大きな病気は抱えてはいないが、年齢とともに少しずつガタがきている。となると、自分の中のモヤモヤはきっと人間関係にあるのかもしれない。でも思い起こしてみても、誰かとすごく険悪になっている、というわけではない。

トンネルの前にある古タイヤに腰を下ろして考えた。それにしても電車は来ない。滅多に買わないと言ったばかりの、缶コーヒーを買って飲む。たまに通りがかる車の中から、怪訝な目がこちらに向けられる。(ジャージ姿のオッサンが何かを思いつめているようだ)いや、まさにその通りだ。

人間関係の場もいろいろあるが、だいたいが家庭と職場、そして趣味などを通じた友人関係になると思う。それぞれの場において、誰でも少しずつの不安や不満があるのかもしれない。自分の場合、その少しずつの不安や不満が入り混じって、日々のモヤモヤになっているのではないだろうか。

いろいろな人間関係において、きっと自分がある人に「片想い」をしているのではないか。こちらが一方的に「片想い」をしていて。自分に対して向こうがリアクションしてくれないと不安になる。向こうは眼中にないのかもしれないし、ただ傍観しているのかもしれない。もしかしたら、こちらの気持ちをわかっていても無視をしているのかもしれない。

LINEは自分ではやらないが、子供達の間ではけっこう浸透していて、その中での仲間外れやイジメがあることも多いらしい子供たちの世界。その中で、仲間はずれにならないよう子供たちは振舞っているのかもしれない。そう考えてみると、まるで自分も同じである。

SNSの功罪というのもあるのだろうが、自分が勝手に思い描く妄想に自分が振り回されている。

ロードバイクやカメラなど、SNSを始めてから多くの人と知り合うことができた。おそらく自分にとって、大切な友達であり、生涯の財産となるべき存在かもしれない。でも知り合ってわずか数年の知り合いに、こちらが勝手に、しかも過度に期待を寄せるのは向こうにとっても迷惑な話だろう。

距離感は大切だ。距離を置く、というのではなく、お互いのちょうど良い距離感をつかむことは大事なこと。その距離感から始めてもいいのかもしれない。他人の動向を気にするのはやめよう。あまりに慎重になりすぎて、何も行動を起こせないのは良くないが、もう少し自分を省みることが必要だ。

職場であれば、距離をとるというよりは歩み寄っての話し合いも必要である。そこでのぶつかり合いはあるかもしれないが、そこは避けてはいけないところだ。

家庭はどうだろう。家庭は一番の基本。そして自分がきちんとできていないところだ。自分自身が、大学時代から長い間ぐうたらに生活してきたせいであろう。例えば家事ひとつとっても、まったくできないぐうたらオヤジ。家族のためにというよりも、自分がまともな人間になれるよう要努力。

娘も最近は反抗期になってきた。今までは、けっこうアレコレ言ってきた。「宿題やったのが」「早ぐ食べなさい」もうそろそろ彼女の自分の意思で行動させようと思う。宿題をやってなくて先生に叱られるのも、遅刻して気まずい思いするのも、彼女の自由だ。

だから、もうアレコレ言うのはやめにしよう。ただ、なるべくちゃんと見るようにはしておこう。彼女が、なにか困ったときに応えられるように。

ふと、遥か向こうから電車の音が聞こえてきた。踏切の音は聞こえなかった気がした。私は我に返り、カメラを構えた。

今までの時間を払拭するかのように「リゾートしらかみ」が目の前を通り過ぎる。「ガタンガタン、ガタンガタン、ガタンガタン…」

電車は、わずか5秒ほどで通過した。時計を見ると、北金ケ沢はずれの集落に佇み、考えふけること、2時間が経過していた。その長く隔絶された不思議な時間は、わずか5秒ほどの出来事で終了した。

私は何も考えず、黙々と鰺ヶ沢までバイクを漕いだ。「千畳敷」に行って、昼飯を食べてくる時間もあったが、今の自分にはコンビニの塩おにぎりで十分だった。あの隔絶された120分、何を考えていたのか思い出せなくなっていた。結局、モヤモヤの正体は何だったのだろう。

自宅に戻り、ポツンとテーブルに置き忘れた携帯には、何も着信はなかった。そして、ぼぉーと思いかえす自分の手元には

 

 

ロードバイクの後ろを通り過ぎる「リゾートしらかみ」の写真があった。

 

 


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コメント5件

  • Takashi Maeda より:

    自分てなんなんだべね?子供の頃から不思議に思っていました。自分以外の人と自分の違いも良く判らなかったし、地球上に同じ自分がいるのではないか?宇宙にはそんなことで悩んでる自分が無数にいるのではないか?そんな自分が死ぬとその人たちはどうなるんだろうとか・・・?気がつくとただの親父からその辺のジジイに成っていた。でも心のどこかにモヤモヤしたものは常にある、でも気にしなければ良いことの様だとなんとなく判ってきたのも事実です。人間て不思議な生き物なんだビョン。生きるための不要なことをどんだけ切り捨てれるか?それがその人のセンスなのかもね、監督!

    • ferokie より:

      アニキ、ほんと人間て何なんでしょう?
      でもアニキのような、少し歳上の先輩にこう言っていただけるとホッとします。親父くらい年配だと少し説教くさく感じるし(笑)、同年代だと愚痴っぽく聞こえるし。だから、アニキの言葉、いつもありがたいです。

  • Masaru より:

    小6の時に祖父が自宅にて息を引き取ったとき、不思議と涙が出なかった。
    ただ、「おじちゃの気持ち(意思や魂)はどこに行った?それとも消滅したのか…? 周囲が悲しみに包まれる中、こんな事をなんて心の隅っこで思っていた。→たぶん雑誌ムーの読みすぎだと思う。

    当時の小6が出した答えは「無機質になった」だった。
    そこに至ったプロセスは…
    遺された人々の記憶は残る。→そういえば祖父から先の先人に方々には逢ったことがないから、記憶はもちろん無い。→遺族側の意思や記憶力が強かったら墓石や仏壇の拝む対象物も必要ない。祖父の亡骸は物質になってしまったが、心の中で生きているので、切り離された訳ではない。

    最近はまた心境が変わってきた。
    そうか?本当にそうなのか?→それは逝く人間の考えであって遺される側にも意見を聞いてみないとなぁ。→でも近年のお墓事情も大変だ。→はやり何も残さない方がいいのか?

    などと、maedaさんのコメントに便乗した生死感をつらつらと…(ど汗)

    • ferokie より:

      阿保さん、人間死ねばどうなるんだべ?って思うことあるけど。とりあえず、今を生きましょう!そしてまた飲むべし!

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