ミサイル と 弘南鉄道
変なタイトルである。
29日は複雑な朝を迎えた。
迎えたというよりも、なんともイヤな音で目を覚ました。
とくに我が青森県やその近県は、飛翔体が真上を通過するとかで、2度イヤな音が鳴った。
よく聞こえないが、街にもなにやら、緊急の放送が流れているようだ。
頑丈な建物もなければ、もちろん地下もない。
私は娘を抱き抱えて、布団にくるまった。
昨日、少しいいことがあった。
『つなげよう! 弘南鉄道 大鰐線 フォトコンテスト』にて、なんと【大賞】をいただいてしまったのだ。
ちょうどこのブログでも紹介した【初めてのツーリング / 弘南鉄道大鰐線「サイクルトレイン」】のときに撮った一枚。
写真が目的で出かけることはあまりなく、ツーリングだったり、娘とのドライブだったり、そのときに気に入った光景があれば撮る、といったかんじで。
ブログをやるようになってからは、少しはマメに撮るようになったかもしれない。
今回の写真は、大鰐をプチツーリングしたときの帰り、電車に乗る前の写真だ。
風呂道具は持ってきていなかったので、残念ながら温泉ツアーはできなかったけど、電車に「さっパス」の標識があったので、こんなタイトルにしてみた。
津軽の人なら誰でもわかるが「さっぱす」は「さっぱりする」のこと。
弘南鉄道の「さっパス」はそれにかけての商品。
「弘南鉄道大鰐線:中央弘前~大鰐往復乗車券&鰐come入浴券&お買物券(200円分)がセットで通常1560円(往復乗車券860円+入浴料500円+お買物券200円)が・・・1000円!」という商品らしい。
タイトルには使用したが、この商品はまだ使用していないので、使ってみなきゃ。じゃないと詐欺になってしまう(笑)
初夏にFacebookのカバー写真を変えていたが、しばらくそのままだったので、この写真に変えてみた。
正直、そんなに応募も多くないローカルなコンテストだったが、思いのほかたくさんの方々からお祝いのコメントをいただいた。
陸奥新報にけっこうデカく載ってしまったからかもしれない。
みなさん、ありがとうございました。
そんなこんなで、コメントへのお返しをしながら寝ついた夜であったが、
あのイヤな音で目を覚ました。
こういった有事を憂うときは、いろんなことが頭をよぎる。
3.11のときもそうだった。
もちろん、家族や知り合いの身の安全をまずは心配するわけだが…
その後、とりあえずいろんなことの無事が確認されたあとになって、なんともいえないモヤっとした気持ちが心に渦巻いてくるのだ。
「今後の日本はどうなるのだろうか?」
「戦争が起きるのだろうか?」
そういうことも頭をよぎらないではないが、
「この先、ちゃんと生活ができるのだろうか?」
「お店をやっててもお客さんは来るのだろうか?」
といった、やはり目の前のことに不安を感じてしまう。
洋服、なかでも嗜好品的な要素を持つモノは、有事には後回しにされがちだ。
現に震災のときもそうだったと思う。
買い物だけでなく、レジャーやスポーツ、文化事業に至るまでの自粛。
それでも、やはり自然災害はしょうがない一面もあり、それだけに寄り添う気持ちも生まれるし、支援の輪も広がる。
しかし、今回のようなことは、人間が起こしていることである。
それだけに、やり場のない憤りが湧いてくる。
ネットなんかを見ててもいろんな意見があるものだ。
「数分で目的地に到達するミサイルに対してアラートで警戒を呼びかけてどうするんだ。不安を煽るだけだ」
「今回のことで、誰もが危機意識を持つようになったと思う」
「不安を煽ることによって、憲法改正に一歩近づいた」
「日本が迎撃をさらに強化するために、アメリカの軍需産業は潤い、結果アメリカも潤う」
単なる一市民の意見、というか希望を言わせてもらえれば、
世界中で何兆円も軍需に注ぎ込むお金があれば、それこそ世界中で必要とされる支援、復興、教育に使えないものかと。
そんなことが簡単にできないのは、この頭のない自分でも多少はわかるが、それでもそう思ってしまうのだ。
自分が小さい頃、
ミサイルやロケットといえば、ヒーローモノや科学モノにおけるカッコいい存在だった。
もちろん現代においても、月や惑星に向けて打ち上げられ、いつかはエネルギー開発や移住までのプロジェクトもあるのかもしれない。
科学って、素晴らしいなとは思うのだけど。
そこまでして人間は生きなければならないのだろうか。
人力ではない、電気や燃料を使って動く最もゆっくりなもの…のひとつかもしれない「弘南鉄道」と、そして最も速く飛び回る「ミサイル」
はたして、どっちが「人間」のためになるのだろうか。
その答えを出すのもまた、愚かな自分たち「人間」なのかもしれない。
アオイと言われ様がなんと言われようが今回の(以前からだけど)安倍首相の態度や言動にはがっかりする。こんな時こそ戦争を起こさない方法を模索するのが国民の安全安心を担保する方法なのに全く逆である。平和に勝るものはないはずだからそのためには、すべてを犠牲にする覚悟を国民一人一人持たなければならないのだと強く思っている。