秋の海 / おやじの亡くなった日
朝5時に目覚ましをかけた。
この1ヶ月まともに走っていない。天気予報では朝から晴れマーク。久しぶりに神社まで走ろうか…と思っていたが。
なんとなく眠れず1時ころ就寝。しかも3時に小便に起きてしまう。歳だな…
5時に目覚ましは鳴ってくれたが、寝不足のままでは練習に支障がある気がして、目覚ましを止めた。
最後に書いた練習とは、娘の合唱部での練習のことである。本日、3度目の合唱指導。真剣に臨むには、体調も万全じゃないと。
そんな言い訳を唱えながら、2時間ほど眠りについた。
今回の指導は、主に曲全体に目を通しながら、気をつけて歌いたいところの最終チェック。そしてもうひとつは、自宅でもできる自分の発声や発音のチェック。
子供たちの楽譜には、先生から受けた指導項目の書き込みがたくさん。8月の県大会の頃になると、楽譜は真っ黒になっている。
そこにさらにチェック項目を書き込んでもわかりにくいし、すでに楽譜から目を離して歌っているので効果は薄い。
だから、チェックする場所に付箋を貼り、気をつけたいことを少しだけ書き込ませる。そしてウチに帰ってから、読み返してもらう、という方法を取ることにした。
これまで2回の指導で、繰り返し話したことも多かったが、それでも書き込んでチェックすると意識も変わるものだ。
日頃、指導されているH先生の合唱指導は本当に素晴らしく、正直私などが指導に入り込んでもいいのかな?と思ってしまう。
ただ、先生がおっしゃるには、「同じ内容を伝えるのでも、別の人が、違う言葉で伝えると、子供たちが理解してくれやすい」とのこと。
確かにどんな素晴らしい先生でも、毎日毎日指導をされていると、伝える方も、教わる方も、新鮮さを保つのはなかなか難しいものかもしれない。
練習の様子を拝見しても、子供たち集中力ないな…と思うこともある。まだ小学生だからなあ。自分が小学生だった頃を思うと、「この子達、ホントすごい」とは思うんだけど。
ただし、コンクールの場は、「芸術を表現する場」であると同時に「競い合う場」でもある。
H先生の指導が厳しく、熱が入るのもよくわかるというものだ。
付箋を貼ってのチェックが終わると、次は自宅で発声や発音をチェックする練習について。
これは、お風呂場で歌うこと。お風呂に入ったとき、十分温まってから、鏡に映った自分に向かって歌いかける。
キーは少し下げてもいいので、歌いやすい音域で、言葉がはっきりわかるように、歌いかける。朗読をするように。
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鏡に映った自分に、自分の口がどのように開いて歌っているかチェックしてもらいましょう。
鏡に映った自分に、自分の言葉がはっきりと子音のひとつひとつが聴こえるかチェックしてもらいましょう。
鏡に映った自分に、自分がどういう表情で歌っているか、チェックしてもらいましょう。
他に観客はいません。恥ずかしがらずに、いろんな表情、口の開け方をして、試してみましょう。
どんな発声や発音をしたときに、お風呂場できれいに響いたかな。
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大人数の中で歌っていると、自分がどんな歌い方で歌っているかは、案外わからないもの。なので、これはいまだに自分が風呂に入ったときにやっていること。
鏡に映るのは自分自身であるが、それでも歌いかけるのは少々照れくさいものだ。それを払拭していくと、人前で堂々と歌えるようになっていく…と勝手に考えている。
3回目の指導ということもあり、なんとなくだが子供たちともコミュニケーションが取れてきた気がする。心なしか、こちらの目をちゃんと見て、真剣に聞いてくれているような気がした。
お昼すぎ、合唱の練習も終わり、娘と一緒に外に出た。弟からメールが届いていた。
9月3日はおやじの命日だ。
弟家族と一緒に鰺ヶ沢へ墓参りに行くことにしていた。自宅で合流したあと、弘前市内で昼食をとることに。
ラーメンでもと思ったが、日曜のお昼どきとあってどこも満員、満車状態。あきらめて回転寿司に行こうとしたが、そこも大行列…
しょうがないので、鰺ヶ沢へ行く途中にある、す〇家で牛丼を食べることに。混んではいたが、なんとか座ることができた。
しかし、甥っ子の二人は元気だ。ってかかなりうるさい(笑)騒々しく昼ごはんを終えて、鰺ヶ沢に向かった。
鰺ヶ沢の郊外スーパーでお供え物を買って、お墓に向かう。お盆に来たばかりではあったが、ここ数年は命日は来れないときも多かった。子供たちが好きそうなおやつや飲み物をわんさかとお供えする。
賑やかな孫3人を見て、おやじもお袋も喜んでいるだろう。
おやじが亡くなってからは14年。おふくろが亡くなってからは24年が経つ。
おふくろが倒れたときは、自分はスキー場にいた。その頃、夢中になっていたスノーボードをしていた。スキー場に自分の名を呼ぶアナウンスがあった。
受付にいくと店から電話があり、母親が倒れたとのことだった。
すぐ鰺ヶ沢に帰った。おふくろは一旦、心臓が止まったらしい。無理やり、電気で心臓を蘇生させたらしい。しかしそのまま目を開けることはなく、4日後に逝ってしまった。
鰺ヶ沢でひとりぼっちになったおやじは、年々衰えるスピードが早くなった。しだいにボケも入るようになった。
おやじからの電話が鳴ると「おい、晩ご飯できたや」と言う。私が弘前にいることもわからなくなっているときがあった。最初は自分も焦り、「しっかりしろ!ワは弘前だや!」と怒鳴ったりした。
そういう対応はよくないことが、だんだんとわかるようになった頃、おやじの身体もすでに限界がきていた。とくに何の病気というわけでもなく、身体のあちこちがもうダメになっていた。
鰺ヶ沢の中央病院にしばらく入院した。
私は、弘前から週に5日くらい通った。朝早く、病院に行って、まぐろや海老の刺身をよく食べさせた。
もちろん病院食はあったが、病院側も何も言わなかった。一度、退院したあとは老人施設に入った。
本人はこれがとてもイヤだったらしい。今でも覚えているのは、施設に見舞いに行ったときの帰り際。
部屋の窓から、私の車に向かっていつまでも手を振るおやじの姿。あまり手を振ったことなど記憶になかったのに。
その後、次第に体力もなくなり、再び入院。肺に何か所か穴が開いて水が入り、もはや機械で延命するしかない状態になっていた。
機械で延命するということは、その時点で意思の疎通はできなくなるということだった。
そのような状態が何日か続いたあと、私は弟と八戸の叔父と相談して、機械を外すことに決めた。
すでに意識はなくなっていたと思っていたが、もしかしたら外の声は聞こえていたのかもしれない。
機械を外したあと、私は耳元でおやじに話しかけた。
「おとさん、ワだよ。聞こえでらが?」
おやじの目から少しだけ涙がこぼれた。
墓参りをすませたあと、みんなで海に行った。
風が強く、波が高かった。甥っ子二人が足を海に入れていた。と思ったのも束の間、二人は波にもまれながら全身ずぶぬれになる。
終いには、裸になって波打ち際を走り回っていた。
娘も履いていたパンツがびしょ濡れになりながら、一緒に走り回っていた。




夕暮れに輝く秋の海に戯れる、孫三人を見て、おやじも微笑んでいるだろう。
私は、カメラが好きだったおやじの気持ちになって、シャッターを切っていた。
最後の画像
すでにファインダーとシャッター、がお父さんに乗っ取られてますよ!
撮り手の気配がプンプンします。(笑)