日野皓正のビンタに思う
かなり前に、書いていた文章が下書きにあった。
どうしてこういう内容を書こうと思ったのか、今となっては思い出せない。
そのまま御蔵入りかな?と思っていたところ、巷でジャズミュージシャンの日野皓正の「ビンタ事件」が騒がれていた。
下書きしていた内容が、少しだけリンクする気がしたので、投稿してみようと思った。
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昔、親父が他人から私のことを言われると、よくこう返していました。
「おめだの弘樹だば、いい学校さいぐんだべ」
「なもや!こいだっきゃなも勉強さねんで、プラモデルだのばり作って、なもまね!」
半世紀近く前の鰺ヶ沢の津軽弁ですから、相当訛りが強い。
簡単に言えば
「いやいや、こいつは全然勉強もしないで、プラモデルばっかり作って、全然ダメなんですよ」
どこのうちでも、自分の子供のことを言うときは、こんなだったかもしれません。
もちろん各家庭それぞれに違うかもしれませんが、少し悪く言う、つまり他人に対して「へりくだる」のが日本では一般的だったのでしょうか。
まあ、確かにプラモデルばっかり作ってたし、親父の言うことは間違っていません。でも本人を目の前にして「なもまね!」と言われると、さすがに頭にきます。
もちろん、小、中、とクラスには私より成績の良い子はいましたが、それでもたまには学年で上位になることもありました。
そんな時は、「お〜頑張ったな」と言ってくれるのですが、他人と対する時はいつも決まって
「なもなも、こいだっきゃなもまねくて」
世の中の風習もあれば、親父の性格もあったのでしょうが、次第に私も自分の頑張りをアピールすることはなくなりました。
黙って結果を見せる、というのでもなく。「どうせ褒められることはないしな」と半ば諦め、話すのもメンドくさくなったのだと思います。これも普通の成長過程のうちかもしれません。
すでにうちの娘(小4)がそんな状態。
「いつまでゲームやってんの!」「はあ?」
「宿題あるんじゃないの?」「知らない」
どこのウチもこんなかんじでしょうか。現在の日本でも、他人に自分の家族のことを話すときは、一昔前とあまり変わらず、へりくだる人が多い気がします。
「うちの子、もうゲームばっかりで全然勉強しないんだって」
これなんかは一番多いパターンかも。別にへりくだってるというわけではなく、単なる事実かもしれません。どこのウチも。
多少、へりくだって話す方がその場の雰囲気的に話しやすいとは思います。
「うちの人だっきゃ、家事だの全然やらなくて、ただ食っちゃ〜寝でさ」
自分の旦那のことをボロクソ言う人もいますね。これは自業自得かもしれませんが。
「へりくだり」ほどは多くはありませんが、けっこうあるのが「自慢話」です。
「うちの子、今回の選抜で選ばれてさ、遠征に行くんだって!」
こういうのは自慢というよりも、良かったことの報告みたいな感じなので、特別聞いてて嫌じゃないし、逆に嬉しくなります。
でも「お〜すごいね!いつも成績いいもんね!」
と話を振ると、そこからプチ自慢が始まり、いつまでも終わらない…みたいな。そういうのは、ちょびっとツライ。
世の中、「へりくだる人」と「自慢話する人」とのバランスでできてるのかもしれません。
私は、大げさに脚色して他人を貶したり、逆に自慢したりというのは、なるべくならしたくない。まして本人が一緒にいるときはなおさら。
なるべく、正直に思っていること、事実のことを、そしてそのとき必要と思ったことを話したい。。
相手によっては、その事実が自慢に聞こえたり、あるいは貶しに聞こえたりはあるかもしれませんので、当然話し方というのも大切です。そっちのほうが大切なのかも。
もちろんその場の雰囲気でオモシロおかしく言うことはあると思いますが、一緒にいる娘が不愉快な思いをするのは自分も嫌ですし、逆にみんなにチヤホヤされすぎて勘違い人間にはなって欲しくありません。
でも、娘が何かに向かって必死に頑張ったときには、素直に思いきり褒めてあげたいと思っています。
外国の方は、人前で自分の妻のことをよく自慢する、と言いますよね。上で書いたのとは少し矛盾しますが、これはすごくいいと思います。なるべく実践したい(笑)
ま、ここは日本ですから、誰もがそう思ってくれるかどうかはわかりませんが、日本も徐々にそうなっていくといいなあと。日頃からなるべくニュートラルでいたいと思います。
ニュートラルといえば、なんかあまり喜怒哀楽がない、無難な感じのイメージを抱くかと思いますが、決してそうではなく、いろんなことに常にニュートラルな気持ちで臨めれば、
良いことがあった時には、思いっきり喜び、許せない時は、思いっきり怒り、
悲しい時は、哀しみ号泣し、みんなでテーブルを囲んだ時は、思いっきり楽しみ満面の笑みを、と思うのです。
これは自分がこれまでできていなかった自戒でもあって…わかっちゃいるけどなかなかできていなかったこと。
もうだいぶ歳はとりましたが、まだ遅くはないから、きちんと感情を表して、もう少し人間らしい自分を取り戻したい。と、思うのです。
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こんなことを数ヶ月前に書いていた。
前に書いた自分の記事を読むのは、我ながら小っ恥ずかしいものだ。でもせっかくだから、修正なしで晒してみました。
そして、先日の日野皓正の件。上では「ビンタ事件」と書いてしまったが、事件とは書かないことにする。ネットを見てると、いろんな意見があったようだ。
教育的な指導の立場からだと「どんな理由があっても体罰は許されない」という否定意見。
「注意してもなおドラムを続けたし、周りの規律を乱したのだから、しょうがない」という日野さんを擁護する意見。
また、〈ジャズ=音楽=芸術〉という側面からの意見もあり、「ジャズというジャンルに限っていえば、あのくらいのセッションを許容できないのはミュージシャンとしての日野さんに度量がないのでは」
「芸術というもの、生半可な指導ではたいしたものはできない。彼は日野さんにビンタされたおけげで大成するかもしれない」
などなど。
教育的立場でも芸術的立場でも、どちらにおいても肯定派、否定派の意見があった。
私自身、歌をやっていたり、今では少しだが写真をやってたりするので、芸術的立場からの意見に目がいってしまうのだが、五所川原のアンサンブルグループのMさんが、「今回の件では、いろんな投稿のなかで一番しっくりきた」というコラムを紹介していた。
〈日野皓正児童虐待(ビンタ)事件について元ジャズミュージシャンが考えてみた 〉
私もこれを読んで、なるほど…と思った。
もちろん、これを書いた方の意見に100%同意するわけではないが、自分自身が演奏したことがない「Jazz」というジャンルをわずかながらだが、理解することができたし、このような自分が無知だった側面からの意見を聞くと「なるほど」と思うこともある。
で、自分の意見はどうかというと、これまたはっきりとわからないのが正直なところだ。少なくとも、その現場にいなかったし、その前後の状況もわからないし。
もしかしたら、当日だけではなく、これまで何日も練習をやってきた過程においていろいろあったのかもしれない。
それでも「やっぱり体罰はダメ!」という意見は多いのだが、ではどこからが体罰になるのか?というのも個人個人意見の分かれるところだと思う。
指導者が子供達と日頃どのようなコミュニケーションを取っているのかによっても違うだろう。
現在と10年前、30年前とはまた違うであろう。
例えば今回の件も、「子供の親も日野さんに謝っているし、子供も謝っている。日野さんも、ちょっと行き過ぎました…と謝っている」となれば、誰もこれをそんなに問題視しないと思うし、観ていた観客からも大きなクレームはこないかもしれない。
・・・・・「ビンタ」で思い出したが、高校の頃、体育の授業に遅れた十数人が一列に並ばされ、順番に「ビンタ」された。自分もその中に入っていたが、なぜか「怖い」という感情よりも「うわぁ、もう少しで俺の番だ…」とゾクゾクして待っていたような記憶がある。Mか。・・・・・
では、どうしてここまで騒がれてしまったのかといえば、たまたま撮られた動画がインターネットによって公に晒されてしまったからだ。
そうなると、そのときの状況や雰囲気はまったく無視されて、その「一部の事件」だけが一人歩きしていく。教育的立場からは非難の嵐。でもそのときの状況が少しわかれば、日野さん擁護論も出てくる。
少し時間をおくと、上記コラムのような「なるほど」というような考えも出てくる。
そう考えると、今の我々ひとりひとりが日々お世話になっているインターネットや、過大に報道するマスコミにこそ、なにかしらの「非」があるような気がしてならない。
もちろん、インターネットというツールを使って、ブログを発信している自分もまさにその一人。
「日野さんが悪い、いや中学生が悪い」 「あれは体罰だ、いやそうではない」と、無理やり100かゼロにしたがるのも疑問に感じる。
ただ映像として表に出てしまったのは事実なので、「体罰の善し悪し」が論じられるのはしょうがないだろう。
日頃、指導という仕事についている教師や、芸術で生計を立てているアーティストにとっては、無視できない話かもしれない。
最近、自分自身も子供たちに向き合いながら合唱の指導もしているので、いろいろ考えさせられた。
ただ、なんとなく思うのは…年月が経ったときに、「日野さん、あんときはブッ叩いてくれてありがとうございました!」と話す、世界的に有名になったジャズミュージシャンがいたりするのではないかなあ~
などと思う、自分はあまくさいのだろうか。
* 9月に入ったのでカバー写真を秋の写真に変えてみました。文中の写真は本文とは関係ありません。
追記
日野さんご本人の弁。少し胸が熱くなりました。
「音楽や集団行動っていうのは、輪を考えないと。周囲をリスペクトしないと」
「音楽は、ハーモニーで会話なんだ」
今回の日野さんと中学生の場合も、当事者同士はお互いを理解しているわけだから、まあいいんじゃないの?
というところと、そういうところからエスカレートしていく場合もある、という側面も無きにしも非ずなので、まあ、チクリと刺されるくらいでいいのかと思います。
ただ、ネット上であんまり騒ぐと、逆に中学生を非難する声が高まって、才能を潰しかねないので、取り上げられただけで、そっとしておくのが正解かと。
まあ、なんにせよ寛容な心が最近足りない気がします。
世の中はデジタルじゃないんだから、0か1かって事はないと思います。
0.7とか0.2とか。オフホワイトとかグレーゾーンとか。