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2017-10-25

「何を撮りたいのか」 〜 写真の話 〜


 

写真の話をすると、度々このテーマに辿り着く。

そして結論には辿り着かない。

そのくり返し。

ここ数日、喉がイガイガして、少し咳も出る。

金曜日からは、娘の合唱部の東北大会の引率があるので、ひどくなる前に病院へ行ってきた。

なんとなく頭も冴えないので、ブログを書く気力もなく、いや書こうとする気持ちはあるのだが、文章が浮かばない。

3日に一度のペースを守ってきたが、ここは無理せずに休もうか…と思ったが、一度休むとクセになりそうな気がして。

何を書こうかなぁ…と思いながら、なにげにFacebookのタイムラインを覗いていたら、ずらりと紅葉の写真が並んでいた。

先日までは、八甲田の写真が多かったが、ここ数日で奥入瀬渓流や弘前公園、そして何と言っても多いのが黒石の「中野もみじ山」

カメラや写真のマニアでなくとも、美しいものを見れば撮りたくなる。

まして、今ではちょっと前のデジカメよりも優秀なスマホがある今日この頃。

誰もが美しい写真を、さらにアプリで美しく仕上げ、Instagramにupできる時代になった。

そんな一億総カメラマンの時代にいて、はたして自分は何を撮りたいのだろうか。

ここ最近、そんなことを考えることが多くなった。

そういえば、【 弘前ねぷた 2017 / Hirosaki NEPUTA FESTIVAL 】【 弘前の桜 と 写真 】のときもそんなこと書いてたな。

思考がワンパターンなのかもしれない。

そのときの自分の状態、そのとき居た場所、そのとき居た時間。

それによって撮りたいものも変わるだろう。

そのときの気分で撮りたいものも違うだろう。

 

 

誰もが撮らないような写真を撮りたいのか。

誰もが撮りたくなるような美しい被写体を、上手い人のように撮りたいのか。

誰もが撮りたくなるような美しい被写体を、自分なりの感性で撮りたいのか。

そもそも美しい被写体とは何なのか。

美しいとは何か。

 

 

写真仲間でそんな話をすると、

「趣味でやってるんだから、撮りたいものを撮ればいいんだよ!」

「そのときの気分で、撮りたいものがあれば撮ればいいんだよ!」

という答えが、ほぼ100%の確率で返ってくる。

間違いのない答えだ。

被写体だけでなく、手法についても同様。

自分は、長時間露光もHDRも合成も苦手だ。だから夜景や花火も撮らない。

現像や加工で、彩度をケバくするのも苦手だ。

もちろん、それらを否定するというのではなく、自分の表現として苦手ということだ。

すると、やはり、「人それぞれなんだから、アートなんだから、なんでもありでしょ」

という答えが返ってくる。

もっともな答えだ。

自分自身も、夜景や花火や、花や虫の拡大写真や、奥入瀬が白糸のように流れる写真を撮れる技術があれば、きっと自分自身の新しい写真の見方、撮り方が広がるのかもしれない。

 

 

こうやって自問自答したり、写真仲間の話を聞いたり、ということを繰り返しているうちに、また最初の疑問に戻ってしまうのだ。

そして、やはり自分も紅葉の写真を撮ったり、子供のポートレートを撮るのだろう。

「趣味でやっているのだから、撮りたいものを撮ればいい。楽しめればいいんだよ」

という間違いのない意見。

実は好きではない。

趣味でやることに対し、それを言い訳にしてしまいそうだからだ。

 

 

自転車でも音楽でもそうかもしれない。

自転車に関して言えば、50歳間近で始めたこともあり、大したタイムも出せなければ、長い距離も走れない。

だからのんびりと街や郊外を走り、グルメライドなどを楽しむというのがちょうど良いのかもしれない。

それでも、年に一度の岩木山ヒルクライムや、激坂のロイヤルやらをヒ〜ヒ〜言いながら上るのも、苦しすぎるけど挑戦のしがいがある。

音楽でも、自分が楽しんで歌っているだけでは、聴く人を満足させることはできない。

厳しい練習を何度も何度も繰り返してステージに臨み、初めて「いい演奏だったよ」と言っていただける。

もちろん、そう言ってもらえるとは限らない。ボロクソ言われるかもしれない。

自分の好きなことに向かうとき、何かしらの目標を持ちたい。

その目標に向かう過程が厳しいほど、そこに近づけたときに充実感を味わえるのかもしれない。

そういう意味では、最終的には楽しむということになるのだろうか。

おそらく、過去、心の底から何かを表現したいともがき苦しんだ孤高の芸術家たちは、楽しむことを知らずに生涯を閉じたのではないだろうか。

残念ながら、自分にはそこまでの覚悟はない。

自分の場合、目標を立てたとしても、その値が低いのだ。

きっと、まだまだヒヨッコなのだ。

 

 

「自分は、何を撮りたいのか」

きっと、爺さんになっても同じことを考えているのかもしれない。

確かなのは…「そのとき僕がそこにいた」ドキュメンタリーを撮りたい、というのは信念である。

 

 


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