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2018-01-09

「【村上善男とその弟子達展】備忘録 」 を振り返る


ちょうど1年前、田中屋画廊にて開催された【村上善男とその弟子達展】に参加させていただいた。

現在、ブログのカバー写真で使用している「赤いポストの写っている写真」が津軽塗で有名な「田中屋」の店舗外観である。

残念ながら昨年の8月に閉店となってしまった。

一番町の坂の一番上に位置する店舗。歴史を感じさせる店内は決してモダンな造りではないが、坂道の傾斜を利用した造りは視覚的に変化があり、店内を回遊しても時折現れる段差が心地よい。

 

 

奥の方に進むと、少しだけ半地下になったようなところに喫茶店があった。

「北奥舎」というその名前は、村上先生が住んでおられたマンション=先生のアトリエの名前であった。

学生の頃に、先生のお住まいに遊びに行ったことがあるが、確かにそこには「北奥舎」という小さな看板が掲げられていた。

もちろん借りていたマンションであったと思うが、すべてを自分のものに(所有という意味ではなく)変えてしまう気質に憧れたものだった。

 

喫茶店「北奥舎」横の狭い階段をのぼると、こじんまりとしたギャラリーがある。ギャラリーと呼ぶには天井は高くなく、いやむしろ低いくらいだ。

展示される作品も、思わず触れてしまうくらいの近さにある。

BGMはなく無音だ。冬場はかすかに暖房の音が鳴っていた。

そう。1年前のギャラリーも暖房の音が響いていた。

 

2017年の1月7日~24日まで【村上善男とその弟子達展】が開催された。

4/22付けのブログに備忘録としてそのときの様子を記していた。あらためて読み返してみる。(⇒ 【村上善男とその弟子達展】備忘録

 

読み返してみて、思ったことを思ったままに書いてみたい。

文脈がばらばらになることをご了承いただきたい。

 

あれからすでに1年経ってしまったのか…という思いと、この1年何か芸術にたいして自分が打ち込めたときがあったのだろうか?という自省。

あのときは、尊敬する恩師と先輩方の作品とともに、拙い自作を並べさせてもらう、というだけで気持ちは舞い上がり、かつ萎縮し、そしてなんとも夢のような18日間を過ごさせていただいた。

確かに、後にも先にもおそらく経験できないようなことを経験したのかもしれない。

そして、そのことに満足してしまったのかもしれない。

 

今考えると、自分のチカラで作品展を開催したわけでもなく、作品自体もすでに手元にあった写真に少しだけ手を加えた…作品と呼ぶには憚れるような、恥ずかしい「シロモノ」であった。

確かにあまり中身のない「シロモノ」であったが、それでもなにか、学生の頃に感じていたふつふつとするものを抱きながら、数日間取り組んでいたのは間違いなかった。

 

しかし、この1年、そんな思いを抱きながらシャッターを切ったことはあったのだろうか?

そんな思いを抱きながら、プリントしてみたことがあっただろうか?

 

自分の人生があとどのくらいあるのかは神のみぞ知るだが、おそらく潤沢にはないであろう。

1年前に「弟子達展」に参加したことで、何かを表現しなくてはならなくなった。

おそらく今の自分には写真しかあるまい。そう思うようになった。

だが、そう思うようになったら思うような写真が撮れなくなった。

 

……………………………………………………….

日々、洋服屋という仕事をし、休みの日はたまにロードバイクを走らせたり、娘の部活に参加したり。そのついでに写真を撮る、というのがここ1年のスタイルになっていた。

仕事柄、何かの機会でアートに触れるということはあるが、自分が先立って実践することは少ない。だから、何かのついででもいいので写真を撮るという行為はなるべくしようと思っている。そして機会があれば、いろんな写真集や写真展も観て、いろんな芸術に触れる。

自分は写真のプロではない。プロの芸術家ではない。仕事をしているのだから、そこまでする時間もなければ、そこにかけるお金の余裕もないのだ。

だから、必死になってどこか遠くまで行って、雪ヤブを漕いで、熊に襲われる恐怖を感じながら写真を撮る必要はないのだ。

自分のできるリミット。時間、お金、技術。いろんな角度から見た自分のリミットを見極めなければならない。

そうやって気持ちに余裕を持って、楽しまなければイイ写真は撮れないのだ。

………………………………………………………………….

 

そんなふうに自分のリミットを決めてしまって撮った写真は、クソくらえだ。

きっと、そんなふうに考えながら過ごした1年だったから、なにもできなかった。

たまに、いろんな写真集や写真展を観て、芸術に触れた気になっていただけだ。

 

でもそんな勘違いもたまにはOKだ。

勘違いや自信過剰もたまには何かをやり始めるきっかけになることがある。

さて、この1年は何を撮ろうか。やろうか。

 

しっかりと自分の撮りたい、やりたいものを狙い定めて、そしてまたふつふつと心に何かを抱いてみたい。

きっとそれも大きな勘違いなのかもしれない。

 

my house


 

この先、自分が何を目指して、何をやりたいのか。

まったくもって、何も考えられていないのが、この二転三転する文章でよくわかる。

 

この先、長ーくはない人生。

二転三転するのも悪くない。

 


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