【 TPM第4回写真展 】と【 生誕100年 ユージン・スミス写真展 】 ①
先週、二つの写真展を拝見した。
ひとつは【 TPM(ツガルフォトミーティング)第4回写真展 】 もうひとつは、前回のブログでも触れた【 生誕100年 ユージン・スミス写真展 】である。
「TPM」は私自身も所属する写真グループであり、弘前を中心にFacebookを通じて繋がったメンバーで構成される。弘前のみならず、青森、八戸、さらには盛岡や東京のメンバーもおり、総勢は1000名を超える写真愛好家のグループである。
自身が所属しているのに、「拝見する」とは妙な言い回しであるが、今回は自分が作品を出展しなかったので「拝見する」ことになったのだ。
結成してまだ5年目の若いグループ。「第1回写真展」が4年前の1月で、毎年同じ時期に「弘前市立百石町展示館」で開催している。
そしてどういうわけか、記念すべき第1回と第2回の「写真展」では、私が「写真展ディレクター」という大役を務めることになってしまった。自分自身は、写真を始めてまだ間もない「ド素人」であったが、「TPM」代表の成田氏と知り合いだったこともあり、二つ返事で受けてしまった。
大学時代に美術デザインを専攻していたこともあり、仕事柄ウィンドウディスプレイをやることも多かったので、写真展そのものをディレクションすること自体に興味があったのかもしれない。
しかし、いざ携わってみると予想していた以上にその作業はしんどかった。自分だけでなく参加するメンバーのほとんどが「写真展」の初心者であり、すべてが手探りであった。しかも、初めての写真展なのに、いきなり参加人数が100人とか出品数が200点とか、完全に自分たちのキャパをオーバーしていたし、募集の段階ですでにギブアップ状態だったことを覚えている。
それでも、初めて顔を合わせるメンバーたちと、額装をしたりキャプションを作ったりと、楽しいひとときも味わうことができたし、そういった作業を通じて多くの写真好きの方々と知り合うこともできた。
「第1回写真展」では、展示方法や会場内の雰囲気など、「エッジーでカッコよく」することに拘った。
地方の写真グループが催す「写真展」はどちらかといえば、ほのぼのしているものが多い。もちろんそれも悪くない。
しかし参加人数が多くなればなるほど、ほのぼのしてしまうので、なるべく「緊張感のあるカッコいい写真展」にしたかった。会場に置く什器や椅子、ライトなどもヴィンテージモダンなものを使ったり、記帳用のノートやペンにも気を遣うよう心掛けた。
そうして初めて開かれた【 TPM第1回写真展 】には、予想以上に多くの方々に足を運んでいただき、メンバーが思っていた以上に盛況な「写真展」となった。
かだれ横丁での打ち上げでは、多くの仲間たちと乾杯をし、達成感に浸りながら夜通し飲み明かした。
こうして【 TPM写真展 】は歩み始めた。
第2回もディレクションをさせていただいた。2回目ともなるとメンバーもだいぶ慣れ、スムーズにいくかと思いきや、参加作品がさらに増え、その度にやはり苦労はつきまとった。
少人数のグループであれば、おおよその参加人数や出品数を把握できるが、このような大人数になると最後の最後まで数字が分からないのである。子供の宿題のみならず、締切ギリギリに提出というのは、大人の世界でも同様であるようだ。
第3回目からは、ディレクションを若いメンバーに引き継ぐことにした。
第3回、と今回は、かだれ横丁で「オダギリくん」を経営する小田桐氏がディレクションを担当してくれた。彼は初回から実行委員のメンバーでもあったので安心してバトンタッチできた。彼自身の写真に対する感性は独特であり、彼を信望する友人も数多く、今回も素晴らしい運営をしていただいた。
自身のわがままでディレクションを退き、彼に多くのことを託してしまった身としては、ほんとうに感謝の気持ちしかない。
「ケイタくん、ありがとうございます」
さて、私が今回の「写真展」に参加しなかった理由だが、自分自身が忙しかったり、ちゃんと写真が撮れていなかったり…など、全く理由にならない言い訳はあるのだけれど、一番は「自分が携わっていた写真展」を一人の観覧者として、客観的に観たくなったのが大きな理由だ。
ここ最近、自分自身が撮りたい「写真」や好きな「写真」がどういうものなのか、よくわからなくなっていたし、こういった「大人数の写真展」に参加する意味って何なのだろう?とか考えたりもしていた。
確かに、仲間と和気あいあいと楽しめる年に一度のイベントは、年老いてきた自分にとっても貴重な機会である。多くの仲間と写真について語ったり、カメラについて情報交換したりと、有意義なことばかりである。
ただ自分にとって「写真」は、仲間と一緒に楽しむツールである以前に、自分を「表現」するものになりつつある。かつて学生の頃は「アクリル」で画を描くことなどが好きであったが、今「カメラ」という道具を手にしてからは、「写真」で「表現」したい欲求が強くなった。
「写真展」には娘を連れて行った。
自分が参加していない「写真展」に顔を出すのは妙に恥ずかしい。受付でも冷やかされる。2階の展示場に上がると、大御所の先輩たちがたくさんいらした。ここでも冷やかされる。
久しぶりに顔を合わせる仲間たちと、久しぶりの談笑。みんなとても楽しそうな雰囲気で在廊を満喫していた。正直、自分は場違いな感じもしてしまった。
やはり、「写真」は「プリント」して「展示」して「見てもらって」なんぼなのかもしれない。
全体を拝見しての印象。
第1回、2回の頃は、額を自身で持っている方も少なく、A4サイズのレンタル額で展示していた方も多かった。
しかし今回の展示を見ると、驚くほど大型の作品が多かった。これだけの大きいプリントとなると、おそらく金額も張るだろうし、額もチープなものは使えない。それだけに「見せる作品」として出品者自身が拘っているのが伝わってきた。
そして、大きくプリントするということは「写真」そのもののクオリティが良くなくてはならない。大きいプリントほど、画質やプリントの質が良くも悪くも表れる。でもそれをクリアするだけのクオリティを持った写真が多数あった。
もちろん、その「写真」そのものが持つ「良さ」があるからこそ、大きいプリントにも耐えられるのであろう。
「大きなプリントにして人前に晒す」という行為をこれまで重ねてきて、「被写体をどのように撮って、どうのように現像して、どんなプリントにして表現しようか」と試行錯誤しながらも、メンバー各々が成長してきた証拠なのかもしれない。
もちろん私のような「写真初心者」に毛が生えた程度の人間が言うのは、おこがましいのは重々承知である。でもそれだけメンバー皆さんの作品が輝いていたし、メンバー皆さん自身も輝いていた。
実際、200点近くもの作品を見て感じたこと。
やはりこの膨大な数を観覧するというのは、観る側もかなりのエネルギーを使うということがわかる。しかも出品者の名前が次々と変わるので、それをチェックするだけでもなかなか大変なものだ。
自分が参加、在廊していたときは、1日かけてゆっくりと観れたものだが、一般の来館者は長くいても1時間ほどであろう。その1時間で全作品をじっくり観るのはかなりの重労働だと思う。
しかし、そのような環境の中でも「観た人の記憶に残るような、気持ちに何か訴えられるような作品」であって欲しいのが、出品者の少なからずの思いだろう。そう考えると、楽しくもあり、ある意味ハードルの高い「写真展」なのかもしれない。
はたして、来年の「写真展」に自分は出品するのか、できるのか。それ以前に出品したいと思える写真が撮れるのか。しばらくは悶々とする時間が続きそうである。
そして【 TPM第4回写真展 】と時を同じくして、東京で開催されていた【 生誕100年 ユージン・スミス写真展 】にも行ってきた。
世界的にも有名な写真家「ユージン・スミス」の写真展。一人の写真家の「写真展」としては、展示数も膨大であり、見応えがあった。
日本の地方都市での素人による170点あまりの「写真展」、かたや世界的写真家一人による150点の「写真展」をほぼ同時に観覧した。思いがけなく、「写真」についていろいろ考えさせる時間を持つことができた。
【 生誕100年 ユージン・スミス写真展 】については、次回に書きたいと思う。
てか、書けるかな?俺が。
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