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2018-02-02

【 TPM第4回写真展 】と【 生誕100年 ユージン・スミス写真展 】 ②


先週、東京へ出張があった。

帰りの飛行機まで時間があったので、恵比寿ガーデンプレイスにある「東京都写真美術館」に向かった。【 生誕100年 ユージン・スミス写真展 】を観るためだ。

前々回のブログ「出張雑感 / THE NORTH FACE (ノースフェイス) NANGA(ナンガ)GREGORY(グレゴリー)」にも書いたが、一日目の夕方に出向いたら閉館時間を過ぎていた。だから、二日目の帰りに行くことにした。だから正確に言えば、帰りの飛行機まで時間があったのではなく、時間を作って出向いたのだ。

田舎の人間にとって、このような機会はなかなかない。いろんな写真展や美術展の情報を見聞きして、出張のタイミングが合えば、なるべく観るようにしている。

「ユージン・スミス」

もちろん名前は知っていたし、数点ではあるが有名な写真を見たこともある。

でも、実際はどんな写真家であったのか、どんな写真を撮っていたのか、正直なところまったくの無知であった。

事前に写真展の「公式ホームページ」を見てみた。(写真も数点ですが、掲載されています)

以下、公式ページより引用。

W.ユージン・スミス(1918-1978)は、写真史上、もっとも偉大なドキュメンタリー写真家のひとりです。グラフ雑誌『ライフ』を中心に「カントリー・ドクター」、「スペインの村」、「助産師モード」、「慈悲の人」など数多くの優れたフォト・エッセイを発表し、フォト・ジャーナリズムの歴史に多大な功績を残しました。とりわけ日本とのかかわりが深く、17歳のときニューヨークで偶然であった日系写真家の作品につよい感銘をうけ写真の道を志すきっかけになったこと、太平洋戦争に従軍して、戦争の悲惨で冷酷な現実をカメラで世に伝えんとして自らも沖縄戦で重傷を負ったこと、戦後の日本経済復興の象徴ともいえる巨大企業を取材した「日立」、その経済復興の過程で生じた公害汚染に苦しむ「水俣」の漁民たちによりそった取材などがあります。
 本展覧会は、生誕100年を回顧するもので、スミス自身が生前にネガ、作品保管を寄託したアリゾナ大学クリエイティヴ写真センターによる協力のもと、同館所蔵の貴重なヴィンテージ・プリント作品を150点展示します。情報あふれる現代社会に生きる私たちにとって、ジャーナリズムの原点をいま一度見つめ直すきっかけになることでしょう。

今の時代、写真はデジタルが主流になり、複製も安易にできるようになった。

当時のフィルム写真も、もちろんネガさえあれば同じ写真はいくらでも現像できたに違いないが、やはり保管の難しさ、またネガそのものの劣化など、長い年月でみたときの保存の難しさはデジタルの比ではない。

そう考えると、当時のヴィンテージプリントを間近で観れるというのは、少々興奮する。

東京都写真美術館に着くと、同時に別の写真展も開催されていた。しかし残念ながら時間が限られていたので、「ユージン・スミス」の作品だけをを観ることにした。

平日ではあったが、会場は思いのほか混んでいた。受付で観覧料を支払い地下の会場へ。入り口でチケットを渡し、中へ入る。

作品は年代順に並んでいた。

「ユージン・スミス」は上で述べたように、主に『LIFE』誌で活躍したフォトジャーナリストだ。

作品は年代ごとに、世界のいろんな国々で撮られたものが並んでいた。ドキュメンタリーが多いので、医者や助産婦など、現地の人間と医療を通して関わった人間たちの写真が多かった。

のちに太平洋戦争など、戦場におけるドキュメンタリーをテーマにした写真も多くなる。特に沖縄での悲惨な状況を伝える写真などを観ると、彼の日本に対する思いも特別なものがあるのだなと、感じさせられた。

その後、実際に日本で活動をし、「日立」で戦後の復興を「水俣」で公害に苦しむ人々を、世界に発信していった。

キレイな風景写真や心温まるポートレイトではなく、現実を目の当たりにしたドキュメンタリー。それもモノクロームばかりの写真を150点も観ると、さすがに疲れた。ぐーっと引き込まれてしまった分、かなりの疲労感を、そして充実感を味わった。

東京都写真美術館をあとにし、恵比寿の駅までなんとなくボーッとした気分でゆっくり歩いた。

少し前のブログで「日常の中に潜むドキュメンタリー」を撮りたいということを書いた。自分は何かの雑誌の専属カメラマンでもなければ、戦場を駆け回るジャーナリストでもない。

日頃、身の回りにある、ちょっとしたことの中にも「ドキュメンタリー」は潜んでいると思っているが、やはり「本当のドキュメンタリー」を目の当たりにすると、「自分の撮りたいものは何なのだろう」という、いつもの疑問が頭を持ち上げてくる。

もし死ぬまでカメラを触っているのならば、死ぬまで続く課題なのかもしれない。年老いるまで課題があるというのは幸せなことだ。

東京都写真美術館前の回廊

弘前に帰り、二日後、【 TPM第4回写真展 】に足を向けた。

「ユージン・スミス」のようなドキュメンタリーはほとんどなく、多くが「風景写真」であったり「ポートレイト」であったり、「スナップ」であった。

そして、そういった百数十点の写真を観て、心のどこかで「ホッと」する自分がいた。

自分の撮りたい写真は「日常の中に潜むドキュメンタリー」なのかもしれないが、「撮る人」の数がいるだけ「写真」の数もあり、それをどう感じるのかも「観る人」の数だけ「写真」はあるのだ。ということをあらためて感じた。

いろんな写真展や美術展を観て、あれやこれや批評するのもボロクソ言うのも自由だし、それもまた芸術鑑賞の醍醐味なのかもしれない。でもきっと、どんな作品でも、それに感動する人もいるだろうし、その作品に救われることもあるかもしれない。

ボロクソ言われてもいいから、誰か一人でも「心に届く」ような写真が撮ってみたいと思う。

そんなことを感じた「二つの写真展」だった。

「写真は小さな声にすぎない。 ときたま(….ほんのときたま….)、一枚の写真が、あるいは一組の写真が、われわれの意識を呼び覚ますことがある」

〜ユージン・スミス〜


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