弘前大学美術科 「 卒業制作展 」
1982年に弘前大学に入学した私は、幸運なことに留年することもなく4年で卒業することができた。
しかし、4年のときの卒業間際の自分は、精神的に不安定な時期であった。
周りの学生たちが教員採用試験に受かり、あとは赴任先が決まるのを待つだけだったり。県内有数の銀行に内定が決まっていたり。はたまた、今で言うところのIT関連の大企業に就職が決まっていたり。
という中にあり、自分はアルバイトを続けていた「洋服屋」でとりあえず働くことにしていたからだ。
教育学部を卒業するほとんどの学生が受ける「教員採用試験」を私は受けなかった。受けなかった…といえば、妙にカッコつけた言い回しだが、受けたとしても100%受からないという方が正確なくらい、何も勉強をしていなかった。
実家のある鰺ヶ沢に帰るたびに、幾度となく親父と口論になった。まったく裕福ではなかった実家にとっては、大学まで進みながら「洋服屋」になるなど、考えてもいなかったであろう。いや、自分もそう思っていた。
実は、大学3年あたりには、やってみたい仕事があった。
「マガジンハウス」などの雑誌社で、雑誌の編集やデザインをやってみたかったのだ。「美術科」でも「デザイン」を専攻していたし、「洋服」についても「誰にも負けない」という変な自信があった。
確か4年生のときに「マガジンハウス」を会社訪問した。今思うと、アポもなにも取っていなかったので、会社訪問というよりは勝手な「見学」だった。
その頃の「マガジンハウス」は「ポパイ」や「ブルータス」など人気のファッション誌を数誌刊行していたが、特別に社員を募集をしていなかった。おそらく、洋服や雑誌の好きな若い人やスタイリストアシスタントが社内に出入りしていて、コネや口コミで新しいスタッフを採用していたようだった。
私は、ドアをノックして編集部に入った。部屋の中は思いのほかスタッフは少なかった。
誰一人としてこちらを気にする様子もなく、それぞれのことをしていた。オシャレなスタッフが向かい合いながら将棋を指していた。部屋の中には、なにかまったりとした…田舎者を寄せ付けないスノッブな空気が流れていた。
それは当然のことながら、自分が勝手に抱え込んでいる田舎者特有のコンプレックス以外の何物でもないが、私は誰一人にも声をかけることなく「マガジンハウス」をあとにした。そしてなぜか「よし、今の店で頑張ろう!」と思った。
それは「誓い」だったのか「諦め」だったのかよく分からないが、たぶん後者だったと思う。
弘前に帰り、周りの友人たちが続々と就職を決める中、自分だけがアルバイトを続けるという、なんとも情けない最終学年を過ごした。
「自分の好きなことをやれるんだからイイじゃん」と言ってくれる友達もいたが、私は心のどこかにうまく言い表せない不安を感じていた。
それは、大学を卒業してからも、しばらくの間続いた。
よく同じような夢を見た。
就職先が決まっていない…今、自分は何をして日々生活を送っているのだろう…そしてよく見たのが、卒業するための単位が足りずに焦る…という夢だった。
美術科のデザイン研究室の村上先生が「君が食えるのならやってみればいいんじゃないか?」という後押しをいただいて勤め始めた「洋服屋」であったが、しばらく数年はそんな夢を見てしまうような状況だった。
特に「単位が足りずに焦る夢」は、主に「卒業制作」についてであった。
私は、雑誌のデザインや編集の仕事に憧れていたので、卒制のテーマを「本の装丁デザイン」にしていた。それは「歴史小説の表紙」だったり「楽譜の表紙」だったりした。
ギリギリになるまでやらない「のんびり屋」だったのが災いし、後半は研究室ではなくアパートに持ち帰って描いていた。幸い、夜更かしは得意だったので、何日も徹夜をして描いた。ひたすらアクリル絵具を塗り重ねていった。
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つい数年前、もう誰も住んでいなかった鰺ヶ沢の実家を処分することになり、ほとんど使うことのなかった自分の部屋を整理した。
そのとき、押入れの上にある小さなスペースから、「卒業制作」が出てきた。それは、制作したすべてではなく数点ではあったが、てっきり処分したと思っていたので驚き、そして懐かしくそれらを眺めた。
あの頃、どんな思いでこの作品たちを描いていたのか、もう記憶にはなかったが、30年ぶりに見たそれらの作品は、中身が薄っぺらでまったく上手くはなかった。しかし思いのほか、下手くそでもなかった。
唯一思い出したのは、とにかく卒業するためには仕上げるぞ、という必死な思い。それらの画から、そのときの必死だった自分を思い出した。
パネルの裏には、今は亡き「村上善男」先生のサインがあった。
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先週の「岩井康頼個展」のあと、」引き続きスペースデネガで【弘前大学美術科 「卒業・終了制作展」】が開かれていた。
私は娘と一緒にデネガを訪れ、学生たちの「卒制」を拝見した。
30年前とは、研究室での仕事もだいぶ変わっているようだった。美術科におられる先生方によっても、教える内容が随分と左右される。
私のいた頃のように「作品を創る」というよりは、美術やデザインに「アプローチする」という視点での作品や仕事がいくつか見られた。
数日前に「岩井先生」の仕事を拝見したせいか、学生たちの作品はあきらかに「時間の積み重ね」が浅く、それは当然のことでもあり、また若々しさも感じるものだった。
「とにかく自分の描いてみたい、作ってみたいものをやり遂げる」たとえそれが少し幼い手法であろうが、描き方であろうが、その若々しい感性はエネルギーを放つ。時代が変わろうとも、それは変わらない。
受付に女子学生が二人いた。二人とも今回の卒制展に出展しているらしい。
少しだけ話をした。自分も30年ほど前に卒制展に参加したことなどを話したら「大先輩なんですね!」と言われた。
確かに年齢だけは「大先輩」なのかもしれないが、日頃たいした仕事もしていない自分が急に恥ずかしくなった。
「30数年前の自分は、今の自分を見てどう思うのだろうか」
私はそんなことを考えながら、暇そうにしていた娘の手を引いて、スペースデネガをあとにした。
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