『 男のコダワリ 』
『男のコダワリ』 カッコつけたタイトルが、なんかカッコわるい。でも、洋服や靴などをバイイングして売るという仕事をしているのだから、たまにこういう話もいいだろう。
洋服屋、それもセレクトショップに勤めていると、いろんなことに拘りがあると思われることが多い。もちろん洋服に関して言えば、拘りがないといえば嘘になる。
「どんなブランドのどんなアイテムを揃えたら、いい品揃えになるだろうか」「これからの流れを考えると、こんなスタイルもそろそろリバイバルするかもしれない」…そんなことを日々考えながら30数年以上、仕事をしてきた。ネットのない時代は、雑誌の隅から隅まで読み尽くした。日本では手に入らないものを求めて、パリやミラノ、ニューヨークを回ったこともあった。だから、洋服に関しては相当拘っていた方だと思う。
では、今はどうかといえば、そんなに拘ってはいない。30数年拘り続けてきたものが、クローゼットや下駄箱の中にひしめき合っている。だから、今さら拘らなくても、自分なりには納得できるスタイルになるのだ。いちいちコーディネイトも考えない。手が自然に動いて、そのへんにある物に手足を通している。「ぐうたら」に見えるが、皮膚感覚的にチョイスしている気がする。
洋服に関して言えば「コダワリ」というよりは、仕事であり、人生の大半をともに過ごしてきた同志という思い。ただ、これだけ長い付き合いをしていると、いろいろな場所で洋服の大先輩に会う機会がある。そうすると、自分なんかはとても拘っているなんて言えないな~と実感することも多い。だから「コダワリ」というものは、自分で考えていることと、他人からどう思われているかということにおいて、実はかなりギャップがあることに気づく。
「カメラ、かなり拘っていらっしゃいますよね。やはり10万円くらいのカメラ使ってるのですか?」Facebookやインスタをやっていると、たまにチャリダーからそんなことを言われる。確かに10万円ちょいのカメラを使ってはいるけど、周りのマニアは50万円のカメラとか、100万円のレンズを使っている人もゴロゴロいるし、質問しているあなたのバイクほど高くはない。
「ロードバイクでロングライドしてますよね。やはり10万円くらいのバイクに乗ってるのですか?」と、たまに写真仲間に言われる。確かに10万円ちょいのバイクに乗っているけど、実は家人の借り物だし。周りのマニアは50万円以上もするロードを何台も持っているし、質問しているあなたのカメラほどは高くない。
「アンサンブルを歌ってるって聞きましたけど、やはり何十万もするオーディオで聴いてるんですか?」とは訊かれたことはないが、もちろんそんなオーディオは持っていないし、YouTubeがあればこと足りることも多い。結局のところ、そのジャンルにどっぷりと浸かっている方々には敵わないのである。
確かに、興味を持っているジャンルは他の人よりも少しだけ多いかも知れない。ファッションからの流れで、アートやインテリア・家具などにも興味があるし、実際自宅を建てたときには、デンマークやオランダの家具など、かなりマニアックなものを勉強した時期もあった。
こんなふうに書くと、熱しやすくて冷めやすいのかとも思うが、それとも違う。家具も今は買わないだけで、好きなことには変わりない。カメラもバイクも家具も、購入したいと考えるときはいろいろ調べて、納得のいくものを手にしたいと思うのだろう。でもそれって何かを買うときには誰もがやっていることだと思うし、別に「コダワリ」ってほどでもない。
そう考えると「モノ」に拘るということでいえば、それは「収集マニア」に近いものがあり、おそらくは誰もが何かしらの「収集マニア」だと思う。ただ、年齢を重ねてくると、「コダワル」というのは「モノ」よりも「コト」になってくるのではないだろうか。それはその人なりが、時間をかけて培ってきた習慣みたいなものかもしれない。
朝、起きたらまずトマトジュースを飲む。仕事には誰よりも早く行く。寝酒はスコッチのロックにする。きっと人それぞれに拘っている習慣があるはずだ。確かに、お酒に拘るとかって、男としてはカッコいいかもしれない。日本酒など、どこの純米がいいとか、どの街の米や水がいいとか…そういうことに通じていれば「なんか拘っているなあ」という感じがする。
そう考えると「私はコレに拘っています!」と自信を持って言えるモノやコトって、自分にあるのだろうか。何もないような気がする。いろんなことに「コダワル」人間だったような気がしていたが、こうして書いて自問してみると…何もなかった。
そもそも「コダワリ」って何なのだろう。
「私は、これに関してだけは拘って生きています」と聞くと、ひとつのことに拘り、真摯に生きている気がしてカッコいいなあと思うこともある。「私は、特に拘りなんか持たずに、自由に生きています」なんて聞くと、周りに左右されずに生きているように見えて、これまたカッコいい。
「拘りを持たずに生きることが、私の「コダワリ」です」なんて、カッコつけたことを言うと、あやうくパラドクスに陥りそうになる。もし十年後まだ生きていたら…何か「コダワリ」を持って暮らしているかどうか、そのときに自問してみることにしよう。
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