「写真を撮る理由 ⑧」 〜 最終章 〜
「写真を撮る理由」を知りたいと思った「理由」がある。それは「時間」。
若い頃から「趣味」であった洋服や靴などは「仕事」になった。仕事に夢中なときも嫌なときも、常にそれは近くにあった。しかし、「趣味」はそうはいかない。あれこれとやってきたが、年齢を重ねるごとに「趣味」も定着しつつある(本当は「趣味」という言葉にも違和感があるのだが、適当な言葉が思いつかない)。今現在は「仕事」となった洋服や靴を除くと、写真・ロードバイク・音楽…だろうか。
映画を観る、本を読む、といった自宅で楽しめる趣味であれば、あまり「時間」を気にしなくて済むが、写真は撮りに出掛けなければならない。ロードバイクはもちろんのこと。龍飛崎や十和田湖へのロングライドとなれば一日がかり。音楽もアンサンブル仲間と一緒に練習する、コンクールに出場する、となるとそれなりの「時間」を費やすことになる。
「多趣味ですね」と言われることもあるが、自分自身はそうは思っていない。どれも並列にあり、どれも繋がりがあり、どれも同じ感覚で取り組んでいるつもりだ。しかし、それに向けていざ身体を動かすとなれば、それぞれに「時間」を費やさなければならないのは事実。
私以上に多くの趣味をお持ちの方もいるだろうし、自分の休日はすべてこれに費やす!という「ひとつの趣味」を極めている方も大勢いる。どれも中途半端な自分にとって、「何かを極めている人はすごいなあ」と思うことが多いのだが、自分の好きなことやりたいことを無理にギブアップする必要もないと考えている。
「時間」には限りがある。もうこの年齢だから尚更のこと。それぞれ「趣味」に優先順位をつけるわけではないが、「時間」ができたときに、ふと考える。「今日、写真を撮りに行こうと考えていたけど、それで良かったかな? もしかしたら、久しぶりに走って身体を整えたほうがいいんじゃないか..」とか。
時間の使い方は「趣味」だけではない。娘と過ごしたり、誰かと会って話したり飲んだりという時間も大切だ。いやむしろ、そちらの方が人生においては大切に違いない。そう考えると、なにげなく費やしている「時間」にも意味があるということ。だから「写真」を撮りに行くためには「写真を撮る理由」が知りたかった。どのくらい自分にとって必要なのかを。
これだけの長い文章を書いていながら、結局「写真を撮る理由」は、明言できていない。
前章の最後に書いた【自分の撮った写真を見た人が、はたして「何かを感じてくれる」のだろうか。「何かを感じてくれる」ことで、初めて写真は『作品』となる。それだけのことだ。それだけのことをするために、この先も「写真」を撮らなければならない】というのが、今のひとつの答えだ。
いつかまた、新たな「気づき」があれば、ここに書いてみたいと思う。
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「写真を撮る理由」とは何だろう?…そんな問いに向かい合っていると、真っ暗闇の中を堂々巡りをして、また前と同じ場所に戻ってしまう。
しかし、よく見ると同じ場所に戻っているように見えて、実は前の場所よりもほんの少しだけ高さが違っている。上っていることが感じられぬくらいの緩やかな螺旋階段なのだ。
その暗闇の螺旋階段を上っていくと、塔の上の方に小さな光があることに気づく。やがて、その光のところにに辿り着くと、それは小さな窓だった。そこから見える景色は見たことがあるのだけれど、少しだけ違うような気もする。ふと、その小さな窓を見ると、それはファインダーという窓だった。
長きにわたり、こんな説教くさい話を書いていると、あちこちから「楽しければいいんだよ!自分が納得できればいいんだよ!」という意見をいただく。まさにその通りである。
つまりは、自分が納得するために、この堂々巡りを繰り返し、螺旋階段を歩いているのだ。
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