「 蜻蛉 」
お盆の時期ならまだしも、7月の初旬に蜻蛉(トンボ)を目にすることは珍しい。
でもあの日、確かに蜻蛉は目の前にいたのだ。
二年前の7月の初め。
妻が空に旅立った翌日。
私は一睡もすることができず、夜を明かした。妻と出会った頃からの写真を眺め、一人酒を飲みながら、夜を明かした。
朝から近所に住む義母と叔母がキッチンに立ち、私と娘のためにひや麦を作ってくれていた。
誰もが口数は少なく、重苦しい時間だけが流れていた。
11時頃だったと思う。
増築した住宅へと向かう渡り廊下を歩いたとき、窓の外に何かがいるのに気づいた。
(蜻蛉だ…)
大きな窓のすぐそばの壁に、一匹の蜻蛉がとまっていた。
(あ…)
私はすぐリビングに戻り、娘に言った。
「こっちにおいで。ママが来てるよ」
娘は窓辺に走り寄り、壁にとまっている蜻蛉をじっと見つめていた。
キッチンにいた義母と叔母にも伝えた。
二人は表情を変えて窓辺に歩み寄り、そして妻の名前を叫んで泣いていた。
このとき、一匹の蜻蛉を見て「妻だ」と思ったのには、理由があった。
ほんの数ヶ月前だったが、私はネットである記事を読んだ。そして何を思ったのか、その記事をそのまま保存していたのである。
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通夜と葬儀のあと、兄や姉は日常に戻り、
父が寂しくないように、母と仏間で食事をすることにした。
父がいつも座っていた、床の間を背にした場所。
私は、小学生の頃見送った祖母のことを思い出した。
「死んだ人は、しばらく近くにおる。小さい生き物の姿になって、
祖父が亡くなった時には、
父の言った通り、どちらもいつの間にかいなくなっていた。
「
二人で、「
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確かに窓の外にいる蜻蛉は全く動こうとしなかった。
蜻蛉というのは、捕まえようと近づくだけですぐに逃げてしまうが、この蜻蛉は窓をコンコンと叩いても微動だにしない。
そもそもこの時期に蜻蛉を目にすること自体が珍しかった。
赤トンボほど色は赤くなかったが、確かに赤トンボの形をしていた。
私はしばらくの間、一人で蜻蛉を眺めていたが、全く飛び立つ様子はなかった。
さすがに昼を過ぎればいなくなるだろうと思ったが、廊下を通るたびに窓の外を見ても、蜻蛉はじっと壁にじっとしていた。
(気の済むまでいていいよ)
そう話しかけた。

2021年7月4日 娘撮影
蜻蛉がいなくなったのは、夕方だったろうか。
寂しいような、少し安堵したような、不思議な気持ちになった。
蜻蛉なら、心地よい風にのってゆっくりと天まで昇っていけるに違いない。
あの日から二年が経った。
時間が経つのが早いと言うよりも、あのときから時間が止まっているような感覚がある。
それでも、あのとき号泣していた娘も高校生になった。
やはり時間は早いスピードで過ぎ去っていた。
いや、早いスピードで動いているのは時間ではなく、人間の方なのかもしれない。
ときどき、建物の壁にじっと止まっている蜻蛉を見つけると、ふとそう思うのだ。
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