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2023-10-15

子どもたちの表現を審査するということ


 

10月14日、つがる市にあるK中学校を訪れた。

昨年に引き続き、校内合唱コンクール審査の依頼があり、今年も私とピアニストのAさん、校長先生との3人で審査をすることになった。

昨年は初めての合唱コンクール審査ということもあり、私自身もかなり緊張していたが、今回は保護者の方々の観覧も多く、また子どもたちによるインタビューや合同合唱など、和やかな雰囲気に包まれていた。

それでも、審査員の紹介、校長先生の挨拶が終わると、会場は少しずつ緊張感が高まっていく。

やがて、1年生から演奏の発表が始まった。

 

審査が難しいこと、子どもたちの歌声に感動し涙すること…などは一年前のブログ(→ 「中学校の合唱コンクールで審査員を務めた日」 )にも書いていたし、おそらく今年も同様なので、今回は「審査」について少しだけ書いておこうと思う。

コンクールには「審査」というものが付き物なので、必然的に順位がつく。とくに、子どもたちの表現に対して順位をつけるというのは酷な仕事だ。でも、それはしょうのないことだ。

毎年のように全国を回って審査をされるプロの先生方は、ある程度はクールに淡々と審査をこなさないと気持ちが保たないかもしれない。

 

コンクールでは、審査発表の前には講評があり「素晴らしい演奏ばかりだった」というお褒めの言葉と同時に、今後に向けての「アドバイス」をいただく。

「素晴らしい演奏ばかり」というのは本音かもしれぬし、上位入賞できなかった団体への労いかもしれない。それは、講評を聞く側も慣れたところがあって、コンクールが終われば皆それぞれに満足した気持ちになって帰途につく。

 

今回も、私が審査委員長という大役に任命されたので、発表の前に講評をするという大きな仕事があった。

昨年は「この先も表現することを続けてほしい」と彼らに伝えた。これは自分が常に伝えたいことなのだけど、毎回同じ内容を話すと「ボケ親父」と思われるので、今回はステージから降りて生徒たちにインタビューしながら話をした。

子どもたちは、こちらが思っていたこと以上の答えを返してくれた。壇上から偉そうに話すよりも、こうして距離が近い方がいいのかもしれない。自分の緊張も和らぐし。

 

今回、伝えたかったことは「音楽の楽しみ方」だった。

完全なる持論なのだが、「音楽の楽しみ方」には三つあると思っていて、ひとつ目が「歌うこと・演奏すること」、ふたつ目が「聴くこと」、そして最後に「聴いてもらうこと」。

この最後の「(自分の演奏を)聴いてもらうこと」というのは、とても大切だと思っていて、そこからいろんな感想や評価をいただくことは、この先にあるだろう自分自身にエネルギーを与えてくれる。

そして「聴いてもらうこと」のために、「歌い方やハーモニーも大事だけれど、よく詩を読んでみよう。きっと詩の中に、誰かに伝えたい大切な言葉を見つけることができると思います」と伝えた。

 

 

審査発表。

各学年ごとに、最優秀賞や優秀賞が発表される。

「ウォー!」「キャー!」と歓喜の声が会場に響く。

嬉しそうに抱き合う姿や悔しそうな表情。きっといつもの光景なのだろう。

 

しかしこの日、私の目が、いや私の心が釘付けになる瞬間があった。

それは、2年生の伴奏者賞が発表されたときだった。

発表の瞬間、私のすぐ前に座っていた女の子が突然、顔を覆い泣き始めた。

その子が伴奏をした子なのだろう…ということはすぐにわかった。私の心がグッと熱くなった。

他の発表が続く間も、彼女はずっと泣き続けていた。大きなプレッシャーもあったのかもしれない。

 

ふと思った。

コンクールが終われば、翌日からはその感動や悔しさも薄れるだろう。やがては忘れる子もいるだろう。

でも、もしかしたら顔を覆い泣き続けた子が、やがて音楽を専攻し、プロの世界を目指すかもしれない。

確率の低い話かもしれないが、我々大人の言動が、ひとりの子どもの将来を決定づけることも十分にあり得るのではないだろうか。

 

たまには ピアノと弦を聴きながら

 

「表現者であれ」

をこの先、子どもたちに体現してほしいのであれば、大人たちが表現者であり続けなければならない。

そして「審査する」側も、クールでありながらもホットでありたい。

顔を覆い、泣き続けるその子を見ながら、そう思った。

 


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