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2017-08-02

「ねぶた」の思い出


 

弘前の「ねぷた祭り」が始まりました。

弘前だけではなく、県内一円、青森の「ねぶた」、八戸の「三社大祭」

そして県内各地の町や村で夏祭りが始まっています。

弘前ねぷた

八戸の「三社大祭」は大きな山車が街を練り歩きます。南部地方は同じような山車の運行が多いのかな。どうなんだろう。

津軽はだいたいどの街に行っても「ねぶた」や「ねぷた」です。市町村によって「ぶ」なのか「ぷ」なのかは分かれます。

弘前が「ねぷた」なので、扇型のものは「ねぷた」で、青森のような人形型は「ねぶた」と呼ぶことが多いのかも。

私の生まれ育った鯵ケ沢は、たしか「ねぶた」だった気がします。私が小学校の頃(40年以上前)は、鰺ヶ沢の各町内で「ねぶた」を出していました。多いときは、10数台出陣していたと思います。

鯵ケ沢の「ねぶた」はいわゆる「青森ねぶた」の縮小型です。その頃は、鰺ヶ沢あたりでも地元に「ねぶた師」さんがいて、近所の「ねぶた小屋」で作っていました。

そういえば舞の海も同じ町内だったので、いっしょに集会所で遊びながら作ってたなあ。私も自分でミニチュアを作るのが好きで、小学3年くらいから中学校までは毎年ミニチュアを作っていました。

 

15歳の時に作ったねぶた

しかし地元で作るというのもなかなか大変だったようで、次第に他の町から買ってくるようになりました。木造や五所川原の祭りは8月初めに行われるので、終わったあとにそれを買うのです。

そしてお盆時期に行われる、地元の祭りでまたお披露目となるわけです。もちろん、地元で作っている方が楽しいのでありますが…

それでも買った「ねぶた」が木造方面から引っ張られてくるのを、夜中に親父と見に行ったりして、どんな「ねぶた」がやってくるのかドキドキしながら待っていたのを憶えています。

当時の「鰺ヶ沢ねぶた」は、合同運行はなく、各町内の「ねぶた」がそれぞれ街を練り歩く自主運行でした。

鰺ヶ沢は細長い街です。舞戸(自分の住んでいるところ)から、国道沿いを延々と歩き、鰺ヶ沢の港も越え、大和田という地区まで行き、帰ってきます。

距離にして往復7kmくらい。子供にとってはかなりの距離。それでも終わったあとに貰えるお菓子が楽しみなんですね。

 

そしてスリリングなのが、はるか向こうから他の町の「ねぶた」がやってきたときです。とくに、学区の違う町だと、引っ張っている小学生や中学生もお互い知らないので、ちょっと緊張します。

当時はまだ、はまなす公園やバイパスはなく旧国道でしたので道幅が狭い。だからすれ違うときは、かなり緊張感が高まります。

お互いねぶたを横向きにするのですが、手や足など、大きくはみ出している部分が接触します。

「バキバキバキ!」

音を立てながら、手がもげ落ちたり、デカい穴が空いたりする。

「おっしゃ!ワんどのねぶた勝ったや!」

とかなるわけです。まあ、もちろん大人たちはお互い謝ったりとかしてるわけですが。

でも青森や弘前と違い、観光客が見ているわけでもないし、この後どこか他の町に買われていくわけでもないので、「もうどうなってもいいべ!」みたいなノリがあります。

ひどいときには、首がもげたまま運行したこともあったな(笑)

「ヤ~レヤ~レ!ヨ~イヤサ!」これが鰺ヶ沢ねぶたの掛け声です。

小学生の頃、何度か青森のねぶた祭りを見に行ったことがあります。「ラッセラーラッセラー」という勢いのある掛け声。信じられないほどの大きさと華やかさ。

鰺ヶ沢とは違う流れるような笛の囃子。すべてにおいて圧倒されました。

記念のはがきを買い集めては、画用紙に「青森ねぶた」を描きました。当時の「青森ねぶた」であれば、面を見ただけで誰が作った「ねぶた」かすぐにわかりました。

その頃のねぶた師といえば、「鹿内一生」「佐藤伝蔵」「千葉作龍」です。私はとくに「鹿内」さんのねぶたが好きで、よく真似てミニチュアを作りました。

そんな「青森ねぶた」のオタクだった自分。やがて大学に進学し、弘前に住むようになると、祭りで目にするようになったのは、扇型の「弘前ねぷた」です。

いわゆる凧絵にも似た、武者が描かれた「扇型のねぷた」です。

台数ははるかに多く、70台近い数になります。青森の華やかさとは異なり、まるで川を流れていく巨大な灯篭のように、

ゆらりと街を歩く。

見送り絵

「ヤーヤドー!」

掛け声も決してスピード感はなく、堂々としたかんじ。「青森ねぶた」オタクだった自分にとっては、最初なんとなく物足りなさを感じていました。

やはり若い時は、ガムシャラに跳ねたりする方がなんか楽しいって思っていて。

洋服屋に勤め始めると、ちょうど運行コースの土手町に店もあったので、毎年のように飲みながら弘前の「ねぷた」を見るようになりました。

大町方面に移転してからも、ちょうど大町コースの解散地点に店があるので、やはり毎年のように飲みながら「ねぷた」を見ます。

そうしているうちに、やはり住んでいるところの「ねぷた」がいいなと思うようになりました。

 

ネプタノモンドリコ

ただ、ここ数年は、五所川原も黒石、平川あたりも「ねぷた」の観光にチカラを入れ始めていて、各地で観光客の奪い合いもあるようです。

確かにこの時期は、観光業界にとっては書き入れ時。お祭り自体が観光化していくのはしょうがないことなのかもしれませんね。

「ねぶた」「ねぷた」も時代とともに少しずつ変化していくのでしょう。

かつては「青森ねぶた」に憧れ、今では「弘前ねぷた」をしみじみ眺める自分ではありますが、やはり一番好きだったのは、自分たちの町内の「ねぶた」を引っ張っていた、あの「鰺ヶ沢のねぶた」だったかもしれません。

 

風雲児信長

きっと娘も今参加している「ねぷた」が一番いい思い出になるのかもしれないな。


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コメント2件

  • Masaru より:

    「石打無用」
    小さい頃はなんの意味か判らなかった。
    が、おばちゃ(祖母)から聞いた話しと仕事柄目にする史料を照らし合わせると、それは「喧嘩ねぷた」だったらしい。
    おじちゃが血気盛んだった時代は、ねぷたとなれば鍋をヘルメット代わりにかぶり、石を投げ合ったそうで、あまりの過激さに「ねぷた禁止令」なるものまで発令されたとか。そいう彼も道路のドブ(溝)で朝まで気絶していたとか…

    「おっしゃ!ワんどのねぶた勝ったや!」のフレーズ、
    当時のおじちゃも、石を投げて紙を破ったりするたびに、ほそく笑んだに違いない。

    • ferokie より:

      地域同士の「喧嘩ネプタ」だった時代は、ある意味幸せな時代だったのかもしれませんね。今の世界中は狂っている人が世を掌握しつつありますから。

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