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2017-09-25

「西谷英樹先生」の思い出


9月21日、西谷英樹先生がお亡くなりになりました。

西谷先生は、私が大学在学当時に在籍した、弘前大学混声合唱団(=通称ヒロコン)の常任指揮者でした。

長い間、ヒロコンの常任指揮者を務められ、また青森県合唱連盟の理事長も歴任、青森県全体の音楽の普及にご尽力された先生です。

西谷先生が一躍有名になられたのは、おそらく1971年の全日本合唱コンクール全国大会にて、「弘前中央高校」が『金賞』を受賞したときだと思います。

その頃は、私もまだ小学生ですから、合唱のことなど何もわからない頃の話です。合唱など、正直なよなよしたイメージがありましたから、自分が高校、大学と歌うということは想像もしていませんでした。

私が「ヒロコン」に入団したとき、すでに西谷先生は「ヒロコン」の指揮をされていました。見るからに怖そうで、貫禄たっぷりの先生です。

しかし指折り数えてみますと、私が入団した頃の先生は、46~7歳だったのです。今の私よりも全然若い時代だったのかあ…と思うと、随分と貫禄、そして存在感のある先生だったなと思います。

その頃の「ヒロコン」は、先輩方のお力もあって、全盛期を迎えつつありました。団全体でも50~60名ほどいましたが、特に、私の学年は入団した人数も多く、20名近くいたかもしれません。

しかも、相当キャラの濃い連中がたくさんいました。そのせいか、合唱に対するなよなよしいイメージもその頃はまったくなかったのです。

練習が終われば、大学前にある喫茶「MON」でコーヒーを飲み、アパートに帰ってからは「寒沢浴場」に集合して湯船に浸かりながら歌い、夜中は「サントリーホワイト」を飲みながら、朝まで麻雀をするのが日課でした。

実は、西谷先生も麻雀が大好きで。

私とS先輩が一緒に住んでいたボロボロアパートの「サンダ館」で【西谷英樹杯・大麻雀大会】が開かれたこともあります。団員の9割くらいが雀士でしたので(笑)、おおいに盛り上がった記憶があります。

先日、娘の引率で「NHK全国学校音楽コンクール」の東北大会に行ってきたのですが、大学の合唱コンクールは「Nコン」ではなく「全日本合唱コンクール」というのがあります。上で書いた、かつて西谷先生が弘前中央で指揮をされ「金賞」を受賞したコンクールです。

私が大学1年生のときは、仙台で東北大会がありました。課題曲は「Max Reger」 のとても難しい現代曲で、全く音が取れませんでした。

コンクール当日の朝、東北大学がある公園で一人一人歌わされた記憶があります。残念ながら、その年は全国大会に進むことはできませんでした。

翌年、とても声のいい1年生が入団し、男声に厚みが増しました。その年の東北大会では、課題曲はオーソドックスなポリフォニーを歌い、自由曲では萩原英彦作曲の「光る砂漠」を演奏。

繊細さよりは、強引に迫力で歌い上げる「ヒロコン」には相性のいい歌でした。そして、念願の「金賞」を受賞! 自分にとっては初めての全国大会に進むことができました。

私が3年生の時の東北大会は青森で開催されたのですが、その年の東北大会が一番思い出に残っています。

各団体の演奏が終わり、審査の発表までの間、各大学がステージに上がって各団のレパートリーを披露するのが常になっていました。例えば、「山形大学」などは「最上川舟歌」を男声が迫力たっぷりに歌い上げます。

そのとき我ら「ヒロコン」は、私を含む男声4人で「東京弁ポルカ」を歌いました。当時、青森西高で指導されていた小倉尚継先生が作られたコミカルな男声合唱曲です。

ベースを担当していた私が、「ぐ~ぐど寝でまいへ~!」というフレーズで思いっきり横に飛び跳ねて、3人が受け止める!という振り付きの演奏でした。

頭も真っ白になり、ちゃんと歌えたのかどうか全くわからなかったのですが、歌い終わった後に、割れんばかりの拍手だったのをはっきりと憶えています。

「東京弁ポルカ」飛び跳ねた瞬間

そして審査発表では、その勢いのまま(だったのか)またもや「金賞」を獲得してしまったのです。

西谷先生は、盛岡、大阪、長野、と3年連続 私たちを全国大会に連れて行ってくださいました。

全国大会に行くと、もちろんレベルの高い常連団体ばかりで、「ヒロコン」はとても歯が立ちませんでしたが、それでも「銅賞」をいただくことができたり、それがLPレコードになったりと、自分にとってはこれ以上ない「ヒロコン」時代を過ごすことができました。

西谷先生の指導は、とにかく「しっかりと歌う」ということに重きを置いていました。中途半端に技術に走ることを嫌いました。

先輩団員の中には、そのやり方を不服に感じ、先生と衝突することもあり、先生が「もう指揮やらない」といって、途中で帰ったこともありました。

先生は、バトミントンでも県内では相当の実力者だったらしく、文系、芸術系にありがちなインテリタイプではなかったような気がします。一緒に歌って、怒って、鍛冶町の「ことぶき」でビールを飲んで、そこの二階で麻雀をする。

そんな先生でした。

晩年、何度か大病を患ったようで、いつだったか「ヒロコン」の記念定期演奏会のときに、「いやあ、何回か三途の川を渡りかけたよ…」とおっしゃっていたのを覚えています。

私も社会人になってからは、しばらく歌うことから遠ざかり、10年ほど前にまた歌い始め、そしてまた少しお休み…を繰り返していたのですが。

今年になり、娘が小学校で合唱部に入部。ちょっとしたきっかけで私も指導にも携わることになり、また歌とのお付き合いが始まりました。

そんな年に、西谷先生が逝去されるという…私自身にとって、忘れられない年になってしまいました。

中央〜島口先生(現バッハアンサンブル)、中央右〜西谷先生、中央左〜自分

25日、黒石市で先生の葬儀がありました。前日のお通夜には行けなかったので、お葬式に参列することにしました。

「東京弁ポルカ」を作られた小倉先生もご参列されていて、少しだけお話することができました。

「Nコン」県大会で審査を務めていただいたのですが、「和徳小の演奏がとても良かった」と褒めてくださり、まるで西谷先生からお言葉をいただいた錯覚をおぼえました。

祭壇にあった先生の写真は、ずいぶんと若い頃の写真で、僕らに指導をしてくださっていた頃の写真のようです。

もう一度、歌の話をしたかったなあ。西谷先生、どうぞ安らかにお眠りください。


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