「病気」のこと
2週間ほど前に風邪をひいた。
熱は無かったが、喉が少し痛く、鼻水が止まらなくなった。巷ではインフルエンザが猛威を振るっていたので少々焦ったけど、なんとかおさまってくれた…かと思いきや、副鼻腔炎を併発してしまったらしい。
鼻の奥の方が、ず〜んと重く。熱はないが熱っぽく感じてしまう。年に一度くらい味わうイヤな症状である。
市販薬を服用したが、いまいち調子が良くならないので素直に耳鼻科へ。とりあえず1週間は、処方された薬を服用しながら、様子を見ることになった。
「病気」は、誰でもイヤなものであるが、誰でも罹るものだ。
日頃から身体を鍛えている人でも大病をするし、毎日ご飯の代わりにお酒を飲んでいるけど長生きしている爺さんも知っている。「人」によって、「病気」に対する考え方も違うかもしれない。年齢によっても勿論、違うだろう。
【「病気」のこと】なんて重々しいタイトルを掲げたけど、別に何かをカミングアウトするというわけではない。ただ、やはり若い頃に比べると、何か病気に罹ったとき「自分、大丈夫かな?」と思うことは多くなった。
しかし毎日のように看病され世話になりながら100歳まで生きたい…などという気持ちは毛頭なく、ただ単に、もう少しやりたいことがあるので、もうしばらくは頑張って生きたいとは思っている。
仕事でもあり趣味でもある「洋服や靴」は、外を出歩けるうちは歳をとっても楽しめる。
「写真やカメラ」も、手足が動くうちはまだまだ撮りたいし、正直今の自分は初心者レベルだから技術も感性もさらに高めたいと思う。
「音楽」も、声が出るうちは、機会があればステージに立って歌ってみたいと思っている。
「ロードバイク」 これだけは、日々少しずつでも鍛えないとロングライドやヒルクライムは厳しいかもしれない。岩木山のヒルクライムレースに80歳の方が出場されているのを見ると「おお〜スゲエ!俺も歳とったらあんな感じになってみたいなあ」と、つい…いや、きっとお若い頃から日々鍛錬してこられたのだろう。
「歌を口ずさみながら、カメラを背負い、岩木山までツーリング」などという、自分の好きなことを兼ね備えた「贅沢な趣味」
とりあえず手元に機材(高級じゃなくても)さえあれば十分堪能できる趣味であるから、それを実現させるためには、やはり身体が資本ということになる。
はて?自分は健康なのであろうか。
上に書いたように、年に一度くらいは風邪をひいて、副鼻腔炎にもなったりする。昨年の初売りでは腰を痛め、それ以来腰の調子は良くない。ちゃんと診てもらってないけど、ヘルニアなのかもしれない。
そして、慢性的にここ10数年お付き合いしているのが「高血圧」である。医者にタバコをやめるように言われ、すぐやめた。それでも遺伝的要素もあるのか簡単に正常な人の値にはならず、今でも薬を服用している。
しかし、生死を彷徨うような大病はしたことがないので、「生活習慣を改める」というところまでには至っていない。ラーメンも週に2回は食うし。酒も毎日飲むし。さすがに量などは控えるようになったけど、管理しているとはとても言えない。
そういえば、「大病」はないのだが、「入院」はしたことがあるのだ。それも手術をしての「入院」
もう20年近くも前になるかもしれない。
お袋が亡くなり、鰺ヶ沢で一人暮らしになった親父のところへ、私は休みの度に帰っていた。真夏のその日も、午前のうちに親父のところへ顔を出し、遅くならないうちにと弘前へ車を走らせた。
101号線バイパスを走り、板柳のあたりに来たところで急に腹の右側が痛み出した。便意かな?とも思ったが、痛みが尋常ではなくなってきた。私は必死に痛みに耐えながら運転をした。もがき苦しみながらなんとか弘前に辿り着いた。
私はその足で「市立病院」に駆け込んだ。確かその日は土曜日だったので、普段お世話になっている内科はすでに終了していたのだと思う。
「市立病院」も通常の診療は終わっていたが、当番の先生が診てくださった。外科の先生だった。
10分ほども診察したであろうか。
先生の口から、信じられない言葉が出た。
「すぐ手術しましょう」
私は驚きというよりは、あっけにとられ「え?今ですか?」と言った。
「今やらなきゃ、あんた死ぬかもよ」と先生は言った。
私はすぐさま、さっき会ったばかりの親父に電話をし、職場にも電話をして、事の経緯を説明した。
簡単な手続きを終えると、私はベッドに寝かされた。そして看護婦さんが現れた。その手にはカミソリが…ジョリジョリと私は幼い頃の自分と同じ姿になった。
間をおかずに手術室へ。先生の話によると、症状からいって「虫垂炎」らしいとのこと。いわゆる「盲腸」ってやつ。確かに生まれてこのかた「盲腸」はやってなかった。
まずは「麻酔」を打たれた。何が痛いって、手術よりもこれが痛かった。脊髄?あたりに打つのだが、全身にビリビリッ!と激痛が走り死んだかと思った。
「麻酔」は「下半身麻酔」だった。だから、自分の身体がブルブル震えるのはわかったし、執刀した先生や看護婦の声も聞こえた。
震える私の耳元で「大丈夫ですか?もう少し頑張ってください」と看護婦の声が聞こえる。
手も握ってくれていた(ような記憶がある)。
しかし、記憶も薄れかけ、話し声も遠くに感じ始めた頃、私の耳を疑うような会話が聞こえてきた。
「う〜ん、これ盲腸じゃねえな…」
「う〜ん、どうすっかな?せっかくだから切るが」
「あ〜…こっちかな?」
私は一体どうなるのだろう…このまま死ぬのだろうか…と意識が遠くなっていった。
気がつくと、私は病室のベッドにいた。
お腹の周りに、何か得体の知れないブヨブヨしたものが巻かれていた。
麻酔が切れてから、それが自分のお腹の脂肪だとわかった。
執刀してくれた先生が病室に来て、説明をしてくれた。
「おなか開いてみたらね、盲腸じゃなくて「憩室炎」だったよ」と言った。初めて聞く病名だった。
「憩室炎」は大腸にポコっと小さな風船状の「憩室」ができて、そこが炎症する病気だとか。図を書いてわかりやすく説明してくれた。
「一応、炎症しているところは切り取っておいたから大丈夫。ついでに盲腸も取っておいたよ!見るかい?」
と切り取ったばかりの臓物を見せ、満足げにお帰りになった。
私は、「早急に手術と判断、手術をし、また盲腸も取ってくれた」先生に感謝した。
その日から10日間ほど入院した。
最初の2〜3日は点滴生活で、その後は流動食だった。
ちょうど青森に新しいお店を出すというときで、私が店の内装デザインを担当していた。
私の入院のせいで、オープンが長引くといけないので、ベッドの上でドアのデザインをしたり、病室で工務店の方とミーティングもした。
店のスタッフがお見舞いのときに持ってきてくれた「スラムダンク」も全巻読み尽くした。
モダニズム建築の巨匠「前川國男」設計の「弘前市立病院」に入院しているのであったが、その頃の私はインテリアは好きだったが建築には疎かった。私にとっては、エアコンが効かない、只々暑く寝苦しい病室であった。
同室に4名いる入院患者は、皆人生の先輩で、おそらく二人の方は「癌」を患っていたようだった。
ちょうど「弘前ねぷた」の七日日(なぬかび)。
病室の窓の外に、日中の日差しを浴びた色彩鮮やかな扇が並んでいた。
その年のねぷた囃子は、病室から聴くせつない響きとなった。
しばらくして、私は退院した。
その頃はインターネットなどもやっていなかったので、自分の病気のことなど詳しく調べることもなかったのだが、たまたま店に来た仲の良いお客様と「この夏の出来事」を話した。
そして、医者を職業としている彼の口から、再び信じられない言葉を聞いた。
「憩室炎は手術じゃなく、薬で治療するのが普通だよ。細菌による感染症だから抗生物質を服用して安静にすれば、4〜5日で治るよ!」
「は?…それって…誤診?」
あのとき、
全身が痺れる注射を打たれ、お腹を切られ、健康な盲腸も取られ、流動食を食べながら、ねぷた囃子を聞いた、私は55歳になっていますが、まだ生きています。
この先、いつまで生きるかはわからない。明日ポックリいくかもしれないし、しぶとく90歳くらいまで生きてしまうかもしれない。
ただ、いつ「病気」になるかもしれない…からこそ「身体」もだが、まずは「心」を健全にしておかなければならない。
あのひと夏の経験を思い出し、「歌を口ずさみながら、カメラを背負い、岩木山までツーリング」を実現させるために、まずはロードバイクで減量する計画を立てよう。
いつものように、グビグビしながら。
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