プロ野球開幕 / 読売ジャイアンツの打順オーダー(1977年)
プロ野球が開幕した。しかしプロ野球はほとんど観ない。ファンでもない。
「プロ野球開幕」なんてタイトルを掲げながら申し訳ない話だが、ここ数年プロ野球のナイター中継など、ほとんど観たことがないのだ。
実は小さい頃はプロ野球ファンだった。そう、タイトルの最後にある「1977年」あたりは熱烈なファンであった。もちろん贔屓のチームは読売ジャイアンツである。小さい頃は、毎晩のようにテレビ中継があり、それはほぼジャイアンツ戦だった。中学に入り、ラジカセを買ってもらってからは、ラジオのニッポン放送のナイター中継に釘付けになった。そしてそれも100%ジャイアンツ戦であった。
小学校の高学年のときソフトボール部に入った。田舎の小学校には野球部はなかったのである。自分は背が小さく、ほとんど一番前の方だったが、ソフトボールの遠投は成績の良い方から3番目くらいだった。
休みの日は、近所の空き地や稲刈り後の田んぼで草野球をやった。草野球と言ってもせいぜい4〜5人くらいでやる「バットあて」だった。うちの親父が水道業をしていたので、作業小屋に配管用のビニールパイプがあって、それをちょうど良い長さに切ってバットにした。「やっこまり(ゴムまり)」を打つにはちょうど良い重さのバットだった。私は右利きだったが、バッティングに関しては「左打ち」もかなり得意だったので、よくジャイアンツの選手の形態模写をしてバットを振った。
中学に入り念願の野球部に入った。しかし身体の小さい自分にとっては、木製バットはとても重く、そして軟式のボールも重く硬かった(軟式なのに)。日が暮れるまで球拾いに明け暮れる練習の毎日。次第に、楽しいと思っていた野球がツラくなっていた。
私は知らぬうちに部活に行かなくなっていた。いや、詳しくはよく憶えていない。何しろ40年以上前の話である。
部活はやめてしまったが、やはり野球は好きで、テレビのナイター中継は必ず観ていたし、延長になればラジオにかじりついた。休みの日には、相変わらずビニールパイプのバットで「やっこまり」を打っていた。しかし、中学にもなると空き地で一緒に野球をする友もいなくなった。
いつしか、私は1人で野球をやるようになっていた。「1人で?」 そう1人で試合をやっていたのだ。
それは、だいたい夕方だった。晩ご飯までの1時間ほど、「1人野球」をやっていた。要はテニスの壁打ちと同じようなものだ。鰺ヶ沢の自宅には塀があった。基礎部分が高さ50cmほどのコンクリートブロックでその上が木塀だった。
ジャイアンツが守りだとすると、だいたい小林とかフォームを真似しやすい投手を選ぶ。ちゃんと小林のフォームでブロック塀に投げ、ゴロが返ってくるとショート河埜がさばいてファースト王に投げる。投げる時はブロックの手前でギリギリワンバウンドさせてライナーで返ってくるようにして、ファーストが捕球。それでアウト。
それをきっちり3人分こなすと、さあジャイアンツの攻撃だ。しかしどうやって点数を取るのか?跳ね返ってくるゴロをわざとエラーするのは絶対ナシである。つまり塀にヒットを打たせるのである。どうやって打たせるかといえば、ブロックと木塀の境目を狙って強めに投げるのだ。ブロックのちょうど角のところに命中すると、かなりの強烈なライナーが返ってくる。時には頭の上を越える。投手(自分)の後ろには看護婦寮のフェンスがあった。そのフェンスを直撃すると2塁打で、フェンスを越えるとホームラン。
つまりは、守りも攻撃も投手(自分)のコントロールにかかっているのである。ジャイアンツが攻撃の時には、そのブロックの角を狙って投げるのだが、たまに相手攻撃の時にホームランを食らうこともあるのだ。
打順もしっかりと意識する。やたらめったらとブロックの角を狙って投げるわけではないのだ。やはり王や張本などクリーンナップの時にはホームランが出るように狙って投げる。2番高田の時にはレフト前にライナーが飛ぶように投げる。きちんとシナリオを作りながら投げるのだ。シナリオ通りに行くと満足感はあるが、シナリオ以上の展開になることもあり、王の満塁ホームランが出ると気分揚々で晩ご飯に向かったものだ。
タイトルにある「1977年の打順オーダー」は自分が最も好きな打順だった。
1番柴田、2番高田、3番張本、4番王、5番柳田、6番土井、7番河埜、8番吉田、9番小林
この打順をきちんと守り、選手の特徴をしっかりと活かすバッティング(=ピッチング)をして、試合展開を面白く作り上げていくのが楽しかった。
こんな暗い野球をしていたのは、きっと世の中に自分だけであろう。でもその時の自分は、暗い野球とはこれっぽっちも思っていなかった。とても楽しくて、とてもクリエイティブだと思っていた。いや、クリエイティブだと思ったのは、今になってそうだったと思うのかもしれない。
今時のゲームとかはかなり疎いし、どちらかといえば嫌いである。しかし当時やっていた「1人野球」はゲームのクリエイションに近かったんじゃないか?と思ったりもするのである。まあ、ウチにはあまりお金もなかったし、何をやるにも工夫が必要だった。
「1977年のジャイアンツ」といえば、もうひとつ思い出がある。その年の夏から秋にかけて。毎晩のようにラジオの野球中継を聞きながら、それを録音していた。そしてその日はやってきた。
「ピッチャーは鈴木康二朗。投げた! 打ったー!イッター!入ったー!ホームラーーーン!ついに出ました756号世界新記録!王貞治。ついにやりましたホームラン世界新記録の達成です!」
確かオレンジ色のラベルのついたSONYのカセットテープに録音した。世界新記録のまさにその瞬間をラジオで聞きながら録音していた。「世界の王」は自分の中でも忘れられないヒーローとなった。
その後、原辰徳や篠塚などスタープレイヤーが生まれ、世の中のジャイアンツ人気は続いた。大学生になり、社会人になってもジャイアンツファンであることに変わりはなく、ビールを飲みながらナイター中継を観てはいたが、小中学の頃のジャイアンツ熱はいつしか冷めていた。もちろん「1人野球」をやることはなくなっていた
唯一、松井秀喜が入団したときはジャイアンツ魂が再燃したが、2002年、松井がメジャーに行ってしまってからはナイター中継を観ることはなくなっていた。もうかれこれ15年以上は、プロ野球のナイター中継をまともに観ていない。もはや、ジャイアンツにどんな選手がいるのかもわからない。仕事帰りに立ち寄っていたバッティングセンターにも行くこともなくなった。
なぜ、興味のなくなったプロ野球のことなど書く気になったのだろうか。昨日の大リーグでの「イチロー」のファインプレイを見たからかもしれない。ホームラン性の当たりをダイブして好捕した大ファインプレーだった。
そういえば昨年、娘とキャッチボールをしてみたが、まともに球を投げられない彼女のフォームを見て諦めたのだった。たしか玄関のどっかに「やっこまり」が置いてあったはずだ。もう一回、やってみようかな。
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