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2018-05-27

「日本海中部地震」の記憶


5月26日は「日本海中部地震」があった日だということを知人のブログを読んで知り、あの日のことを思い出した。

1983年のことだから、もう35年ほども前になるのか。地震といえば、やはり「3.11」が規模的にも、またメディアによる視覚記憶的にも、未曾有の大災害として心に刻まれている。しかし、自分自身としては「日本海中部地震」の方が体感的な記憶として強く残っている。

私はそのとき大学の2年生だった。授業があったのか、サボったのかは忘れてしまったが、ぐうたらよろしくボロアパートの2階で布団にくるまり、まだ夢の中にいた。ちなみにどのくらいのボロアパート(何度かブログにも登場したサンダ館)だったかといえば、当時借りた時点で築35~40年だったろうか。ちょうど戦後のあたりに建ったアパートということになる。

外観は蔦の絡まる三角屋根のよく言えば洋風な、内観は古い山のロッジの趣で、廊下の床や階段は黒光りしていた。私はその当時流行っていた(?)ビールの空きケースをベッドするというスタイルを取り入れていた。黄色の「キリンビール」はイマイチだと思い、ブルーの「キリンライトビール」のケースを並べていた。

そんなビールケースのベッドに寝ていたぐうたら学生を揺れが襲った。地震の起きた時間は「5月26日11時59分57秒」らしいから、普通に起きて仕事や勉強をしていた人にとっては、まさに正午のサイレンなのか防災のサイレンなのかわからないタイミングだったかもしれない。

私は揺れですぐ目を覚ました。「地震だ」とわかったが、すぐ収まると思った。しかし揺れは収まらない。しだいに大きくなる。

「バキッ!バキバキッ!」と柱の折れるような音がした。経験したことのない揺れが続く。「バキ!バキ!」「ヤバい、アパートが崩壊する!」と思った。私は布団を被り身体を守った。(このまま建物の下敷きになるのだろうか)

長い揺れが収まったとき、私はまだ幸運にもビールケースの上にいた。どこが震源の地震なのか、まったく情報がなかったのですぐ大学に走った。学食に行くと、多くの人がテレビの前に塊になっていた。何人かの友人の顔もあった。そのうちの一人が俺の顔を見つけて言った。「弘樹!鰺ヶ沢ヤベーよ!」

電話も通じる状態ではなく、私は鰺ヶ沢の実家の様子が気掛りだった。たまたま学食に来ていた友達が車を持っていた。彼の好意で、私ともうひとりの鰺ヶ沢出身の友達を乗せて、鰺ヶ沢に向かってくれることになった。

鰺ヶ沢の海が近づくと道路には数ヶ所地割れがあった。もうひとりの友達の実家は港の方だったが、私の実家は中村川のすぐそばにあったので私の方が先に車を降りた。実家に入るなり驚いた。屋内の壁がほとんど床に落ちていた。親父もお袋も無事ではあったが、相当な恐ろしい思いをしたようだった。弘前から駆けつけた私を見て泣いていたような気がした。

私は、すぐ近くを流れる中村川に行ってみた。しばらくすると1mほどの波が海の方から遡上してきた。「ああ、これが津波なのか…」

私が川を見つめている間、津波は何度も遡上を繰り返していた。

小泊より望む岩木山と日本海。ここを津波が襲った。

能代市の西方80kmを震源とした地震は、時間をおかずに「津波」を発生させたらしい。津波といえば、「十勝沖地震」や「チリ地震」など、三陸海岸など太平洋側に襲来するものという認識があった。おそらく日本海側に住む多くの人がそう思っていたのだろうか、鰺ヶ沢でも漁港の様子を見に行った人や、十三湖でも釣りをしに来ていた人が津波に飲み込まれたということを後に知った。

あのとき、もう少し地震の規模が大きかったり震源が近かったりしたら、実家は津波に流されていたかもしれない。両親も命を失っていたかもしれない。

「昔ってこうだったよね~」なんて大人の話は若者に敬遠されがちだけど、こういう災害の話は機会があるたびに話したほうがいいと思う。それが所謂「記憶の伝承」となるのだから。


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