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2018-08-15

今年のお盆 / 人間の生き死にとは


お盆になると、人間の生き死にについて考える。重く考えるというわけではなく、ふと考えるのだ。

とくに今年はそんなお盆になった。つい2ヶ月ほど前に従兄姉が二人も亡くなったからだ。亡き父は7人兄弟だったので、従兄弟も随分と多く、叔父や叔母と年齢が変わらぬくらいの従兄弟もいた。亡くなった従兄姉お二人も、私よりは随分と歳上なので決して若すぎるということはないのだが、やはりショックであった。

  

今年はまず、岩木山麓のネックレスロードを走り、鯵ヶ沢の山間部にある小の畑に向かった。亡き親父の生まれ故郷である。昔は男ばかりの従兄弟が9人も集結して、田舎の古い家はテンヤワンヤとなった。山の上にある墓地へみんなで歩いた。長く細い山道を登ると墓地があり、真ん中に大きな桜の木があった。

その墓地も十数年ほど前に、集落のある麓に移された。今回はお墓参りもまだだということで、従姉家族と一緒に墓参りをした。先日、土手町でねぷたを観させていただいた弘前在住の辻くんも一緒だった。彼とはひょんなことから数年前に親戚になったのだ。

  

  

亡き親父の実家で昼御飯をご馳走になった。昔に比べると美味しいご馳走が並ぶ。昔のお盆料理は、子供にはどうにも苦手なものが多かった記憶がある。まあ、これも時代が流れたということなのかもしれない。

従姉家族にお別れの挨拶をして、海の方に向かう。まずは高沢寺へ。親父とお袋の位牌堂がある。驚いたことに位牌堂のある部屋にクーラーが付いていた。いつもは汗だくになって拝んでいたのだが、随分と居心地の良い位牌堂になったものだ。

そのあとはすぐにお墓に向かう。墓は車で5分の別の場所にあった。昨日のうちに弟家族が来て、花を供えてくれていた。私と娘は二人で水をかけてお菓子をお供えした。数日後に娘の合唱コンクールの県大会が迫っていた。その大会で「頑張ります!」と娘が誓って、お墓をあとにした。

お墓のあとは、グランメール山海荘のお宅へおじゃました。昔、自分が住んでいた実家のすぐ向かいである。会長夫人は随分とお元気そうだった。親戚の子もたくさん遊びに来ていた。ここにはとても書ききれないが、幼かった頃の自分は山海荘とともにあったと言ってもいい。山海荘の敷地で遊んで、山海荘の温泉に入って、山海荘の女将に叱られて育ったのだ。

さきの5月に亡くなったのは、山海荘の従姉だった。小さい頃、よく遊んでもらったっけ。山海荘の従兄姉はみんな優秀な人ばかりだった。勉強も教えてもらったし、家族もいろいろと助けてもらいお世話になりっぱなしだった。

  

暑い鯵ヶ沢をあとにして木造は菰槌に向かう。亡きお袋の実家だ。昔は車に乗って行っても随分遠いなあと思っていたが、娘といろんな話をしながら走っていたらあっという間に着いた。ここも夏休みといえば必ず泊まりに来ていた家だ。スイカやメロンを栽培していたので、朝はよく畑にカブト虫を捕りに行ったものだ。

だいぶ腰が曲がってしまった母さんと、従姉妹たちが待っててくれていた。仏壇に線香をあげ、手を合わせる。ここの仏間の上にも、お袋の写真が飾ってあった。娘にしてみれば、自分の祖母の写真がなぜここに飾られてあるのか、よくわからないかもしれない。昔は親戚が多かったので、叔父や叔母を覚えるだけでも大変だった。でも今となっては、娘にとって従兄弟は兄弟のようなもの…ってくらいの人数だ。

毎年のように菰槌に来ればスイカやメロンをご馳走になる。娘は枝豆を頰ばっていた。

私が小さい頃の菰槌の家は、随分と昔の造りで天井も低かった記憶がある。部屋が多くていろんなところからアクセスできて迷路のようだった。そしていつもワクワクしたのが2階だった。2階へあがる時には、まずは階段を上り、小さな天井蓋を開けてから2階に入るのだ。それがなんとも忍者屋敷ぽい。そして2階の部屋の奥にある物置に入ると、見たこともないような昔のモノがわんさかとあり、まるで探検をしているような気分になったものだった。

いつものように、メロンやトマトを頂いて、菰槌をあとにした。木造の街中にある親戚にも立ち寄ってみたが留守だったので、そのまま再び岩木山を目指した。森田の道の駅を越えて、岩木山の麓の長平を目指す。正面に見える岩木山がみるみる大きくなってくる。

やがて再びネックレスロードに出ると、長平の「ロッジ山の里」はすぐそこにあった。そのロッジを経営していた従兄が先日亡くなったのであった。夕方近いということもあり、ロッジはひっそりとしていた。いつも笑顔の優しい奥さんが出迎えてくれた。亡くなった従兄のお父上、つまり私の叔父にあたる人は、私が小さい頃、長平青少年旅行村の村長をやっていた。学校行事で宿泊したときは、叔父が村長なのでなんとなく得意気になったものだった。

お線香をあげて、すぐにお暇した。暮れかかる、そして走るたびに容貌を変化させる岩木山を右にみながら弘前への帰途についた。

  

  

鰺ヶ沢の、そして木造の親戚をどんな順番で回ったかなど、他人には興味のない話だ。自分でも2018年のお盆は、こんなかんじでまわったなあ~くらいの単なる日記でしかない。それでも、この歳になってくると、毎年誰かのことを偲びながら車を走らせることになるのだ。

人間の生き死にとは何なのだろう。なぜ生きるのだろうか。そして、親戚に顔を出すたびに、「なんぼオガったなあ~」という親戚の言葉が、日頃気づかない娘の成長をあらためて感じさせてくれる。

それが「お盆」というものなのかもしれない。

  


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