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2018-12-12

「QUEEN」vs 「OFF COURSE」 /  高校時代のバンド


『QUEEN』の映画が大ヒットしている。世界中でヒットしているらしい。配給先の担当者によると、日本では、50〜60代のいわゆる「クイーン世代」にはある程度ヒットすると予測していのだが、いざ蓋を開けてみると、意外にも20〜30代の若い世代の人が映画館に足を運んでいるらしいのだ。しかも、予想以上に女性の来館が多いのだとか。

これはおそらく、かつてはなかったSNSによる拡散が効いているらしく、雑誌やテレビよりも実際観た視聴者、それも自分と同じくらいの年代だったり、女性だったりというのが、よりリアルな感想を持った宣伝効果になっているようだ。

私の周りでも、すでにかなりの方がこの映画を観ているようだ。私はどうかといえば…観ていない。観てないなら、今時分こんな紛らわしいタイトル掲げるな〜!って話だが、今回は、この映画に関しての話ではなくて、自分の高校時代の頃の話。

前にもこのブログで書いたかもしれないが、私は五所川原高校の「音楽部」に在籍していた。「合唱部」といえばなんとなく生真面目なイメージだが、ナニかいろんな音楽をやってそうな「音楽部」という名称が好きだった。しかし、実際やっている活動は合唱オンリーで、定期演奏会とコンクール出場、ほぼそれに集約されていた。

当時(約40年ほど前)は、世の中はツッパリブーム。一見真面目に思える合唱はとても人気があったとは思えないのだが、なぜか部員は90名ほどもいた。そして3年生のとき、なぜか私は部長をしていた。女子が70名近くいてとても名前を覚えきれなかった。

ひとつ上の先輩3人グループが、部の活動とは別にバンドを組んでいた。どんな音楽をやっていたかは、もう忘れてしまったが、確かロックをやっていたと思う。当時、ツッパリがブームではあったけれど、中ラン&プチボンタンに少しだけアイビーの要素(BDシャツとか)を取り入れて、そして何かのバンドをやっているというのが、お洒落なスタイル。先輩たちもそんなかんじだった。

ただ、残念なことに、鯵ヶ沢から来たジャイゴワラシはほとんどロックを知らなかった。中学校の時に流行った洋楽といえば「ベイシティローラーズ」だった。クラスの女の子たちはみな夢中になっていて、彼女たちに認めてもらいたいがためにテレビの前にラジカセを置いて録音し、何かの洋楽雑誌を買って『二人だけのデート』の歌詞を必死に覚えた。

「ベイシティローラーズ」も良かったが、ジャイゴワラシにとって最もしっくりくる音楽はやはりフォークだった。「かぐや姫」の『加茂の流れに』のアルペジオは必死に覚えたし、「井上陽水」の『東へ西へ』は必死に弦を叩いた。

高校に入ると、そんなフォークでギターを覚えたジャイゴワラシにとっては、ニューミュージックにいくのが自然の流れだった。当時、ニューミュージックの一番人気が「松山千春」。その頃絶大な人気を誇っていた歌番組の「ザ・ベストテン」への出演も拒み、素顔もよくわからないというのが人気に拍車をかけていた。3年生の時、私と同じクラスの秀才アラヤくんが、文化祭で松山千春の『季節の中で』を歌った。彼は、同じく当時流行った「熱中時代」の水谷豊と同じリーゼントをしていた。彼の『季節の中で』は最高にカッコよかった。

そして同じクラスの中にいたファッションリーダーのイワモトくんもまた、バンドをやっていた。彼は私にとっては憧れのファッションリーダーで、雑誌メンズクラブの取材が弘前に来ると聞けば、一緒について行ったりしたものだった。彼は音楽に関しても、他の人よりも少し先を行っていた。彼のバンドは「QUEEN」などの洋楽をやっていたのだった。

昨年、数十年ぶりにイワモトくんたちと飲んで、その時の話をしたら「オレ、やってたのはクイーンじゃなくディープパープルだや」と言われた。(「小さな同窓会」参照)あれ、そうだっけ?でも確かに、3年生の文化祭で「バイスィコ、バイスィコ」って歌ってた気がしたんだけどな。違う誰かのバンドだったのか。もしかしたらひとつ上の先輩たちが前の年に歌ったのかもしれない。なにせ、40年近く前の話だ。最近は一昨日の事も忘れるくらいだ。

そんな高校3年生のとき、実は自分もバンドを組んで文化祭で歌ったのだった。それが「OFF COURSE(オフコース)」。松山千春や長渕剛の、あの熱く叙情たっぷりな感じに比べると、少し都会的でシニカルなイメージ。曲調も柔らかく、当時は女性を中心に人気が急上昇していた。私は、当初「オフコース」のことはよく知らなかったのだが、いつだったか深夜のラジオを録音していたときに「オフコース」の曲が流れていた。そのテープには『水曜日の午後』と『眠れぬ夜』という2曲が録音されていた。

今まで聴いていたフォークとは明らかに異なる曲だった。「オフコース」といえば、当時から「軟弱なイメージ」とか「女々しいかんじ」とか言われていたが、実は周りの男友達もけっこう聴いていたヤツが多いように思う。音楽的なことを言えば、実際ギターを弾こうと思えば、今までのフォークにはない難しいコードがあったり、転調が多かったり、リズムが微妙に難しかったりと、カバーをするにはなかなか難しい音楽だった。

隣のクラスの、これまた秀才のマサシくんがリードボーカルをつとめ、私はエレキとハモリのハイボーカルを担当した。たしかヒラヤマくんがベース、アラゼキくんがドラムをやってくれたと記憶している。ただ、私はエレキをほとんどやったことがなく、ハイコードをうまく抑えられなかったので、邪道ながらエレキにカポをつけて演奏したという恥ずかしい記憶がある。そして、たしか『秋の気配』を演奏したのだが、音楽部に在籍しながらハイボーカルのハモりが全然ダメだったのを記憶している。

そんなこんなで、高校時代のバンドはあまり良い思い出とは言えない…いや、実を言えばかなり苦い思い出なのだ。

うまく弾くことのないエレキを練習するのに必死で、部活の練習を度々サボっていたのだった。そう、3年生の部長という立場にありながら。そんな私の態度を見て、音楽部の顧問の一戸先生がブチキレて、文化祭での音楽部の演奏をボイコットすると言いだした。部は騒然となった。しかも、副部長が同じクラスの女子で、顧問の先生の娘だった。

「謝りにいった方がいいよ」と、彼女に言われ、私は音楽室の先生の部屋をノックした。先生はかなりエヘていた。私は何度も頭を下げて謝った。なんとかなんとか、先生は私の謝罪を受け入れてくれ、文化祭で指揮をしてくださった。

少し物悲しさを感じさせる「オフコース」の曲は私にとって、こうして、さらに心に沁み入る音楽となってしまったのだった。

数年後、私のひとつ上のササ先輩の結婚式が弘前であり、一戸先生と数年ぶりに再会した。私は先輩に頼まれて「東京弁ポルカ」という男声四部合唱を歌ったのだが、帰りがけに一戸先生が「オメ、なんぼいいベースさなったば〜」と言われた。おそらく、それが先生との最後の会話となった。

この歳になると、「クイーン」だろうが「オフコース」だろうが、そして子供たちの歌う「合唱」であろうが、音楽にジャンルは関係ないとハッキリと思うようになった。鰺ヶ沢甚句にロックな魂を感じることもあれば、アンサンブルの演奏にパンクな生き様を感じることもある。

すべての音楽は、自分にとって大切なものであり、おそらく死ぬその直前まで歌っているのだろう。


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