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2019-04-12

鯵ヶ沢の海


久しぶりに鯵ヶ沢へ車を走らせた。

もうすでに実家はないので、鯵ヶ沢を訪れる回数は随分と減った。お盆と親父の命日くらいだろうか。おふくろの命日は1月なので、お墓は雪に埋もれているのだ。

年に2~3度はロードバイクのツーリングで来ることはあるが、走りが遅いので鯵ヶ沢でのんびり時間を費やすことは少ない。港のそばにある「たきわ」で『マグロのカマ焼き定食』を食べて、すぐに引き返すというのが常だった。

そんな久しぶりの鯵ヶ沢だが、夕方に訪れたのはここ数年では記憶がない。

何ヶ月か前に、高校のときの音楽部のK先輩から電話があった。先輩は二つ上で、現在は鯵ヶ沢に住んでいる。音楽部で知り合った先輩後輩であるが、どういうわけか二人とも写真をやっていた。

「おお、弘樹。こんど鯵ヶ沢で写真クラブ結成することになったから。オメの名前も名簿さ入れるはんで。いいべ?」「あ、先輩。お久しぶりです。鯵ヶ沢のですか?でも、オレ今弘前に住んでるし」「鯵ヶ沢出身だから大丈夫だべ」「ん~、では少し考えさせてください」「え?まねまね(ダメダメ)、今この場で決めろ」

先日のアンサンブルコンテストでT野先輩の誘いも断れなかった自分だが、今回もK先輩の押しに負けてしまった。どうも先輩には弱いタイプのようだ。

「毎月、月例会あるから、来れそうなときは顔出してよ」

そう言われて初回から一度も参加できないでいたが、今回はちょうど仕事が休みだったので顔を出すことにしたのだった。

約束の時間の1時間前に鯵ヶ沢に着いていた。「海の駅わんど」に車を停めて、少しの間ボ〜ッとしていたが、トートバッグの中から『X100F』を取り出して、私は海の方に歩いた。

沈みかけている夕日が、向こうに見える灯台、さらに向こうに見えるグランメール山海荘を赤く照らしていた。

西海岸は夕日海岸として知られるが、それは主に深浦方面である。鯵ヶ沢の海は湾になっているので、港からは海岸線に沈む夕日は見えない。

鯵ヶ沢といえば、真っ先に海を思い浮かべる人は多いだろう。弘前あたりに住む人にとっては、「海に行く」といえばやはり「鯵ヶ沢に行く」という人は多い。

ただ、鯵ヶ沢で生まれ育った自分が「海っ子」だったかといえば、決してそうではない。鯵ヶ沢は街を流れる中村川によって、駅のある「舞戸」と、港のある「鯵ヶ沢」に分かれている。

私は「舞戸」の生まれだ。「舞戸」の子どもは舞戸小学校に行く。「鯵ヶ沢」の子どもは西海小学校に行く。学区の統合などで随分と変化はあったようだが、この基本構図は今のところ変わっていないようだ。

小学校の頃は、他の学区に行くというのはなかなか勇気のいることだった。とくに私は身体が小さかったので、他校の子はおっかなく見えたものだ。

だから、「舞戸」の子どもは港に行くことはあまりなく、どちらかといえば「中村川」で魚釣りをしたり蟹獲りをした。または、小学校の向こう側にある山の方に行ってクワガタを採りにいったのだった。

それでもやはり、夏休みとなれば毎日のように海水浴場に行った。私が小学生の頃は、「はまなす公園」も海沿いのバイパスもなく、旧国道のギリギリまで砂浜と波があった。

砂浜から長く伸びる桟橋があって、そこから飛び込んでは水面に腹を打ち付け、腹を赤くした。さらに沖にある飛込み台まで半分溺れながら辿り着き、はたして無事に砂浜に戻れるのか…恐怖を覚えながら必死に復路を泳いだ。

大学生になった頃には「はまなす公園」ができていただろうか。弘前あたりからもバーベキューを楽しむヤンチャな若者が来るようになった。私自身もすでに弘前に住んでいたが、自分の好きだった鯵ヶ沢ではなくなったような気がして、少し足が遠のくようになっていた。

この歳になると、そういうことを思うこともなく、なんとなく海が見たくなればロードバイクを走らせたり、カメラをバッグに入れてドライブで訪れるようになった。

この日の鯵ヶ沢は、赤く染まった空が美しく、海も空の赤がゆらゆらと映っていた。深浦で見るようなロマンチックさはないが、その分ノスタルジーがある。

いや、ここで生まれ育った自分だからノスタルジーを感じているだけのことだ。

オレンジと紫と青の空を背景に、漁船がシルエットになる。

カメラを構えてファインダーを覗くと、街灯の上にいた海鳥もシルエットになって飛び立った。



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