toggle
2019-07-26

鰺ヶ沢の温泉 / 『山海荘』の初代女将


「こらー!なんぼうるせワラハンドだば!」

と、『住宅』の窓からおばさんの怒号が飛ぶ。

私が小学生の頃、「日米対抗ローラーゲーム」というTV番組が爆発的に流行った。数人のチームがローラースケートを履いて、敵チームとともにリンクをグルグルと周りながら競い合うゲーム。

相手を攻撃したり、ジャンプで相手を交わしたりしながら点数を取り合うのだ。(今、映像を見るとほぼ格闘技のようだ)

「東京ボンバーズ」という大人気のチームがあり、ミッキーやヨーコがその中心でアイドル並みの人気だった。

「ローラースケート」というアイテム自体が新しかったし、なにより外国ぽくてカッコよかった。学校から帰るとすぐにローラースケートに履き替えて、僕らは『住宅』に向かった。

『住宅』の前には舗装された路面がリンクのようになっていて、グルグル回ることができたのだ。僕らは敵味方に分かれて、グルグルとそのリンクを走り回った。

 

「こらー!なんぼうるせワラハンドだば!」

再び、『住宅』の窓からおばさんの怒号が飛んだ。

「おばさん」とは、近所のおばさんではなく、私の「伯母さん」だった。そして「伯母さん」のことを誰もが「温泉の母さん」と呼んでいた。そして「温泉の母さん」が住んでいた平屋を『住宅』と呼んでいた。

「温泉の母さん」は『鰺ヶ沢温泉 山海荘』の初代女将だった。

 

中央が自分。右が母。左、温泉の母さん。

 

私が生まれ育った実家は、『山海荘』の隣にあった。同じ敷地内といってもいいほどで、自分の部屋の窓を開けると、目の前には『山海荘』の池があった。

生まれ育った実家には風呂がなかった。恐ろしく貧乏だったわけではないが、風呂はなかった。なぜなら隣に温泉があったからだ。

伯母さんが女将だったから、風呂代はいつもタダだった。友達と『山海荘』に行くと、みんなはお金を払っていたが、私は払ったことがなかった。だからいつも得意げであり、少し後ろめたかった。

でも正直な気持ちを言えば、自宅にお風呂がある友達の家が羨ましかった。自宅に風呂がないのは、随分と昔の家のように感じたものだ。

小さい頃は、温泉と銭湯の違いがよくわからず、温泉のありがたみなど特別なかったが、今考えるとなんとも贅沢な話である。

私が高校を卒業するまでの18年間は、この『山海荘』のお世話になった。自分の幼少期を語る上で『山海荘』はなくてはならない。

 

2年前のツーリング。山海荘本館。

『山海荘』には「本館」と「別館」があった。「本館」は、主に旅行客が宿泊する旅館で、1階の大広間では披露宴なども開かれていた。「別館」は銭湯が主で、大好きな売店もあった。

僕らが普段行くのは「別館」の方。二日に一回、夕方になると親父と一緒に温泉に行った。カランコロンと親父の下駄の音が響く。親父が垢こすりでガンガン背中をこすると痛くて泣きそうになった。

友達と行くときは、温泉に入るというよりは、ほとんど遊びに行く感覚だった。足で壁を蹴って、広いタイルの床を滑りまくった。

 

「本館」の隣に、中村川に流れ込む大きな土管があった。小川の水と家庭用排水が混じり、あまりキレイな水とはいえなかったが、その土管が僕らの遊び場だった。

土管の隙間にバカでかいドジョウが潜んでいた。ドジョウを捕まえようと隙間に手を入れる。ヌルッと手の中からドジョウがすり抜けた。

土管から流れ込んだ中村川の川底には、これまたデカい川蟹がいた。とくにデカいのを「マソ」と僕たちは呼んでいた。「マソ」をヤスリで突き刺せた日はヒーローの気分だった。

自宅に持ち帰り、大きな金鍋で茹でると、熱湯の中でカシャカシャと必死にもがく「マソ」の足の音が聞こえた。

『山海荘』は昼も夜も、僕らにとって大切な遊び場だったのだ。

 

私が小学校に入る前は、よく「本館」の方に遊びに行ったことを憶えている。「本館」正面玄関ではなく、横の従業員出入口から入ると、小さい部屋があった。そこで、山海荘の父さんやウチの親父たちが集まり、しょっちゅう花札をやっていた。

私はいつも親父にくっついていき花札を見ていた。おかげで幼くして花札の役は全て覚えた。札を座布団に打ちつけるときも「ピシ!」っと音を鳴らすことができた。

 

お盆の14日から16日にかけて、鰺ヶ沢では「ねぷた祭り」が行われる。浜町や漁師町など、港のある方の町内のねぶたが、僕らの住む舞戸の方に向かってくる。

『山海荘』の前には広い駐車場があったので、必ずこの場所に来てねぶたを回したり、踊りを踊ったりするのだ。

そしてもちろん、僕らが住む「新田町」のねぶたも、港のある方に向かって出陣するために『山海荘』の前に集結する。そして再びここに戻ってきてお菓子をもらうのだった。

『山海荘』は、町内の人々にとって大切な交流の場でもあったのだ。

 

別館が建てられる以前の駐車場前の広場。ねぶたは「桃太郎」

 

幼い頃の『山海荘』の思い出を書くと、ペンが止まらない。まあ、実際はペンは握っていないのだが、そんな気持ちになる。

自分の思い出話を書き綴るというものは、他人からしたらあまり気持ちの良いものではない。ただ、鰺ヶ沢や西海岸に生まれ育った人や、同年代に幼少を過ごした方々にとっては、少しばかり共感していただく部分もあるかもしれない。

今回はそんな気持ちで書いているので、さらっと読み流していただければ幸いです。

 

そういえば、『山海荘』といえば、映画「八甲田山」のロケもあったなあ。あれは、ジャイゴのワラハンドにとっては一大事件だった。

 

続く…(にさせてください)→ 鰺ヶ沢の温泉 / 『山海荘』と 映画『八甲田山』

 

前回のブログ→「鰺ヶ沢の温泉 / 『水軍の宿』


関連記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。