ツール・ド・ツガル / 鯵ヶ沢② 〜やまなみロードから中別所石碑群へ〜
鯵ヶ沢の港で「カマ焼き定食」を食べ終え、そのまますぐ復路につく。
故郷に帰るたびに感傷に浸っていると、あっという間にジイさんになってしまう。感傷に浸るのはお盆くらいにしておこう。
でも、鯵ヶ沢に来たのであれば海の写真は撮っておきたい。しかしこれがまた、いつも同じような場所で撮ってばかり。ワンパターンにもほどがあるというものだ。
気分を変えて「日本海拠点館」へ行ってみる。一昨年、ここで先輩方と写真展を開催して以来だ。
建物は開館しているのかどうかわからない。「本日開館中」という看板はあったが、どうにもひっそりとしている。特別、中に入る用事はなかったので裏の方に回ってみた。
四角に切り取られた空間から、日本海が見えた。
残り僅かになっていたスポーツドリンクを飲み干す。
感傷に浸るわけでもなく、楽しいわけでもなく、悲しくもなく。妙にフラットな気持ちになり、再び走り出した。
帰りはいつものように、県道31号(建石〜十腰内〜鬼沢〜高杉)を走って帰るつもりだったが、それもまたワンパターンな気がした。
(そうだ、やまなみロードを走って帰ろう)
やまなみロードは、県道と交差するようにして、文字通り山並みの中を走っている路である。
県道に比べ、路には適度なアップダウンがあり、また景色も良くチャリダーには良く知られたコースだが、ここ数年は走っていなかった。
やまなみロードに入る最初の交差点は過ぎていたので、とりあえず十腰内(トコシナイ)までは県道を走ることにした。
「建石」という集落までが鰺ヶ沢で、「十腰内」に入ると弘前市となる。なので、中学生(鰺ヶ沢第一中学校)の頃は、建石の友達から十腰内の噂を聞いたものだった。
当時は「ツッパリ」が大ブーム。中でも建石の友達には相当ヤンチャな奴が多かった。そのヤンチャな奴らが言った。「十腰内のヤツらと喧嘩した」「向こうは何十人もいてヤラいでまった」「十腰内のヤツらは怖い」と。
(「十腰内」って、なんて怖いところなんだろう)
ツッパリには憧れたけど、まったくツッパリの要素もなかった自分には、「十腰内」は怖すぎる集落だった。
そんな、かつては怖くて近づけなかった十腰内の集落に入る。
ゆるいアップダウンを何度も繰り返す。まわりに家々はなく、
貝沢付近で再び県道と交差し、ラストのやまなみロードに入る。ここのやまなみロードは、おそらく一度しか走ったことがないので、どんな路かは覚えていなかった。視線の向こうに長い坂が見える。
けっこうな長い坂を上り、右に緩いカーブを曲がると…なんとまた上り坂だ。ゆる〜いアップダウンだと思っていたが、ここのやまなみは違うらしい。70kmプチロングの最後にこれが待っているとは思わなかった。
しかし、高いところからの景色は美しい。遠くに弘前の街がわずかに見えた。上った分、下りがある。あとは、弘前の街に向かってゆっくりと走るだけ。少しずつ民家も増えてきた。
もう少しで再び県道に合流というところで、ある標識が目に入った。
『中別所板碑群』
何か惹きつけられるものを感じて、路を右に曲がった。畑の中を走っていくと、木板の塀が何かをぐるっと囲んでいるのが見える。
板塀で囲まれた中には、石でできた板碑(いたび)が数基、立っていた。すぐ近くに案内板があった。
この板碑は「石造の供養塔」であり、中別所の板碑群は国の重要美術品に指定されているらしい。 驚くのは、板碑の中には1288年、なんと鎌倉時代に建てられたものもあるのだ。
この碑は、中世の資料として貴重であるばかりでなく、薬研彫(やげんぼり)の「梵字」が彫られた板碑としても傑出したものと言われている。(参考サイト→ 「中別所板碑群」)
板碑の向こうに岩木山が見える。
700年以上も前に、この地に人間の営みがあった。現代の私たちと同じように、美しい山を仰ぎ見ながら農作業をしていたのだ。
悠久としたその流れを思うと、鰺ヶ沢から走ってきた一時間は、ほんの瞬きのような時間に思えた。しかし、そのわずかな一時間も、悠久な歴史の一部分でもあるのだ。
石碑群をあとにし、なんとも言えないモヤモヤとした気持ちで走り出した。
しかし、モヤモヤの中に何か小さな光を感じていた。
むしろ、何故か心は爽やかになりつつあった。
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