ツール・ド・ツガル / 追悼ライド『十和田湖一周』
娘を送り出した後、二度寝をしてしまった。
本当は今季初の龍飛を走ろうと思っていた。弘前からの自走はとても無理なので、十三湖から津軽半島北端を一周しようと考えていた。
しかし、身体がだるく頭も冴えない。早々に諦めて布団に潜り込んだ。
ピロン~と、枕元のスマホが鳴った。
LINEか何かのお知らせだろう。私は無視して再び眠りにつこうと思ったが、これ以上寝たら一日が終わってしまう。
目を覚ますためにスマホを見た。Facebookを開けてみると、いつものように「思い出を振り返ってみよう」という過去の投稿が表示されていた。
(どうせまた、岩木山をバックにしたチャリの写真だろう)と思って画面をタッチした。一気に私の眠気は覚めた。
「そうか、今日だったんだ…」
時計を見ると10時だった。(今からなら間に合うかもしれない)
私はベッドから飛び起きて、車の中にバラしたロードバイクを積み込んだ。いつも走る岩木山方向とは逆の方角へ向かって走り出した。
1か月ほど前、これまで乗っていた車が突然動かなくなった。
知り合いの車屋に見てもらったが、どうやらダイナモが寿命らしい。修理はできるが、相当な修理費がかかるとのことだった。
考えてみれば、かれこれ15年近く乗っていた。結婚した頃に乗り始めた車だった。
「私の車に乗ればいいじゃん」
と、亡くなった妻が言っているように思えた。
妻が乗っていた車を処分するかどうか迷っていたが、もしかしたらこれも何かのタイミングなのかもしれない。私は自分の車を処分して、妻が乗っていた国産の軽自動車に乗ることに決めた。
軽にロードが積めるのだろうかと少々の不安はあったが、いざシートを倒してみると簡単に積むことができた。私はのんびりドライブ気分で「十和田湖」へ向かった。
2013年の9月28日。
私と妻は、二人で十和田湖へロングライドへと出掛けた。
弘前から十和田湖の滝ノ沢展望台までは45km。往復では90kmもある。
私もロード初心者だったが、妻は始めてほんの数ヶ月だった。しかし岩木山一周もしていたし、そのポテンシャルの高さに私自身も驚いたほどだった。
とりあえず滝ノ沢展望台まで走ってみようと、私たちは走り出した。
8年前のこの日は、私のこれまでのライドの中でも最も忘れることのできないロングライドのひとつだった。目覚めに過去の投稿を目にしたとき、走らなきゃ…と思った。
あの日の追悼ライドならば、弘前から自走するのが筋だったが、残念ながら、それをできる自信はなかった。
しかし、この車と走っていること自体、彼女と一緒に十和田湖へ向かっている感覚になっていた。
車の中では大好きな佐野元春が流れている。
お払い箱となった私の車は、数年前からCDもDVDも見聴きすることが不可能となっていたが、妻の車では好きな音楽を聴くことができた。
ポップでファンキーなサノモトの音楽はいつ聴いてもノリは最高だったが、何故か私の目は潤み、視界はぼやけていた。
滝ノ沢展望台は、あの日と同じように天気が良かった。
車からロードを取り出して、1年以上ぶりにヴィンディングシューズをはめる。
骨折して以来、ヴィンディングで走るのが怖くてしばらくはスニーカーで走っていた。しかし、十和田湖一周となるとスニーカーではちょいと厳しい。
カチッとべダルにシューズをはめ込むと、妙に新鮮な気持ちがして私は御鼻部山に向かって走り出した。
あの日、自宅から滝ノ沢まで走りきったこと自体がすごいことだったのに、私たち二人はさらに御鼻部山に向かって走ったのだ。
御鼻部山の展望台は、十和田湖一周ルートの中でも最標高の1011mに位置する。
滝ノ沢から御鼻部山までは、十和田湖の縁を走っているのだが、生い茂る木々によって湖自体を目にすることはほとんどできない。
故に、御鼻部山に到着し、その展望台から眺望する十和田湖は格別だった。
前回走ったのは2年も前だろうか。もっと前かもしれない。
記憶にはあったが、やはり御鼻部山までの路はキツいものだった。それでも引き足が使えるヴィンディングはやはりヒルクライムには有効だった。
しばらく走ると少しだけ視界が開けるところに出た。
視界の向こうには美しい山々があり、さらにその向こうには見慣れた三角形の山が小さく見えた。
津軽富士を目にし、晴れ晴れとした気分で再び御鼻部山へ向かった。
空が少しずつ近づいてくるのがわかる。あともう少しだ。
あの日も、十和田湖で最も高いところを目指し、そして私たちは走りきったのだった。
展望台に上って、美しい十和田湖を見た。
それで満足して引き返せばよかった。しかし、欲が出た。
私たちは、そのまま子ノ口へと向かい、路を下り始めたのだ。子ノ口まではほぼ下りだから問題はなかった。
しかしその後、滝ノ沢の激坂を再び上ることを深く考えていなかった。
なんとか上れるだろうと安易に考えていた。
これは初心者とはいえ、このルートを走った経験のある自分が犯したミスだった。
奥入瀬渓流は十和田湖が源流であり、子ノ口から流れていく。
紅葉のシーズンともなれば、この界隈にはたくさんの県外ナンバーの車で溢れる。しかし、今現在の十和田湖は閑散としていた。
私はウェストバッグからマスクを取り出そうと思ったが、なんとなく面倒くさい気がして、あの日と同じ橋の上で写真を撮って子ノ口を後にした。
子ノ口を後にし、しばらく走ると宇樽部という集落に出る。
ボートやカヌーを乗ることができるので、キャンプをする人たちには人気のスポットだ。
字樽部に差し掛かった頃、妻の様子に変化が現れた。どうやら脚にきているようだった。
でも、もう少し走れば休屋でランチを食べることができる。それまでもう少し頑張ろうと私は妻を励ました。
少し走るとT字路の交差点があった。
直進するとトンネル。右折すれば「瞰湖台」という十和田湖を望めるスポットがある。
ロードを乗る人たちはトンネルを通ることはほとんどなく、「瞰湖台」ルートを走っていた。私は迷うことなく右折した。
これが私の犯した二つ目のミスだった。
今日は滝ノ沢からの一周。スランプがあったとはいえ「瞰湖台」は問題なく上れると思っていた。
しかし、思っていた以上に上り坂は勾配があり距離も長い。左膝の裏の腱に違和感が出始めた。
考えてみれば、あの日は弘前から走り始め、黒石から滝ノ沢までの長い坂を上りきり、御鼻部山までの激坂を上りきり、そしてこの瞰湖台までのキツい坂を上ったのだった。
私は夢中になって坂を上っていた。
ふと後ろを見ると妻の姿がなかった。離れたことに気づかなかった。
私はすぐに坂を下り引き返した。
途中で上ってきた軽トラのおじさんが、「女の人歩いてらや」と言っていた。
私は急いで下ると、妻はロードを引きながら歩いていた。
「もう少し走れば休屋って言ってなかった? なんでこんなにキツい坂があるの?」
妻はそう言い放ち、その後無言になった。
二人で歩いたり少しだけ走ったりしながらようやく瞰湖台についた。瞰湖台での写真はなかった。
瞰湖台から道を下ると休屋まではもうすぐだった。
以前、前田のアニキに連れてきてもらった軽食喫茶「憩い」に立ち寄った。
私はナポリタンを、妻はカレーライスを注文した。
妻はずっと無言で、泣きそうな顔をしていた。
「こんにちは!お久しぶりです!」
カウンターの中にいた女性に声をかけると、「あら…もしかして弘前の…」と、私のことを覚えてくれていた。
憩いのお姉さん(私たちはそう呼んでいる)は、マスク姿だったが、以前と変わらず優しそうな笑顔を浮かべている。
「元気にしてましたか?」と聞くと「なんとか元気だけどさ…でも、心はちょっと折れてるの」と言った。
確かに、この時期とは思えぬほど、休屋には観光客の姿はない。有名な観光地ほど、コロナの影響は大きいのかもしれない。
ナポリタンを頼もうとしたら、今はやっていないらしくカレーを注文した。
カレーを食べた後、アイスコーヒーを飲みながら憩いのお姉さんと話をした。
コロナのこと、観光のこと。そして今回のライドが追悼のライドだったこと。
お姉さんは、優しそうな、そして悲しそうな顔をして話を聞いてくれた。
私は何か妙にすっきりとした気持ちになり、「お互い元気に頑張りましょう」と、お姉さんに挨拶をして、休屋を後にした。
あの日、休屋を後にし、滝ノ沢手前までは何とか走った私たちだったが、
滝ノ沢の激坂を上る脚も気力も、妻には一滴も残っていなかった。
3km以上の激坂を二人で歩いて上った。二人とも無言で上った。
時折「ごめん」と私が言うだけだった。
違和感を覚えていた…というよりも明らかに痛み始めていた左膝裏。
腱がビキッとなるとシャレにならないので、私は割り切って休み休み走った。妻と一緒に歩いた滝ノ沢のトンネルはずっと歩いて上った。
「いやあ、ほんときついなあ。あの時は、ほんとごめん」
私は、何度も何度も独り言を言いながら坂を上り歩いた。
視界の向こうに青い標識板が見えた。
激坂も終わりだ。最後の坂を黙々とロードで上りきった。
やがて、滝ノ沢の駐車場に停めてあるピンク色の車を目にした時、なんとも言いようのない感情が湧きあがってきた。
あの日、滝ノ沢まで上りきった二人は、そのまま黒石へと向かう坂を下り始めた。
走る脚はすでに残っていなかったが、下りであればなんとか走ることができた。
空はすでに暮れかかっていた。温川温泉を過ぎ、やがて虹の湖が見えてきた。
トンネルに入ると中はすでに夜のトンネルとなっていた。
私たちのすぐ横を大きなダンプが轟音を立てて通り過ぎる。
「キャー!怖い!もうイヤだ!」
妻が泣き叫んでいた。
私はこのまま自走で弘前に帰ることを諦め、津軽伝承工芸館の近くにある大きな温泉宿に立ち寄った。
そして宿の女将さんに事情を説明し、タクシーを呼んでもらった。
しばらくしてやってきたタクシーの運転手は事情を聞いて驚いた様子だったが、なんとか後ろのトランクのにロード2台を積み込み、私たちは弘前へと向かった。
完全に暮れてしまった空を見ながら、タクシーの中は全くの無言の世界だった。
帰宅した私は、走ってきたことを妻に伝えた。
弘前からの自走ではなかったことに、少々後ろめたさはあったけれど、今の自分には精いっぱいの走りだった。
「おつかれさま」という労いの言葉はなく、かといって「自走じゃないからダメじゃん」というキツい言葉もなかった。
いつもと同じように、ただ優しそうに微笑んでいた。
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