ツール・ド・ツガル / 迷宮の激坂
娘の夏休みが終わった。朝6時半に起き、朝飯の準備をする生活が、また始まった。
早起きは苦手。しかし自分の時間を作るという意味では、早起きは有効である。
娘が登校した後、久しぶりにロードを車に積んだ。目的は十和田湖と虹の湖温泉。
虹の湖温泉は、虹の湖から大鰐へと抜ける道の山間にある小さな温泉である。
虹の湖温泉に車を置いて、そこから十和田湖を目指す。十和田湖から戻ってきたら、温泉にゆったり浸かる。という、いつもの温泉ツーリング。
虹の湖はここ最近の雨で茶色く濁っていた。
虹の湖を過ぎると大鰐へと抜ける道が現れる。その交差点を右折すると、すぐに虹の湖温泉が見えた。
駐車場には車が一台だけ停まっている。入り口に貼り紙があった。
(休みかな?)と一瞬思ったが、見ると「マスク着用をお願いします」と書かれてあった。
ガラス越しに中を覗くと、中でおじさんが何かの作業をしている。私はガラス戸を開け、おじさんに声をかけた。
「すいません。今日、温泉やってますか?」
「ああ?あ、ちょっと待って。おかさーん、今日温泉やってらんだっけ?」
すると、奥の部屋に温泉を管理しているらしきおばちゃんがいた。
おばちゃんは、私の方に向かって大きなバツ印を掲げた。
(どうすっかなあ…)
温泉が休みとなると、もはや十和田湖まで走る気分ではない。
(帰るのもなあ…温泉だけでも入ろうか)
黒石温泉郷もすでに通り過ぎていたので、私は尾上方面へ車を走らせた。たしか、「猿賀神社」のある公園の一角に温泉があったはずだ。
猿賀公園の隅に車を置き、ロードを取り出した。
尾上から平賀あたり、趣のある民家が並ぶ道を走ってみよう。
距離は大したことないし、急な坂があるわけでもない。ヴィンディングシューズはやめ、スニーカーのまま走る。
走ったことのない道を走ってみた。正しく言えば、車では走ったことがあるのかもしれぬが、車では記憶に残らない。見える風景も違う。
平賀の街に入った後は、東へ向かって走ってみる。視界の向こうには山々が見える。
しばらく走ると「新屋」の地名があった。
(そうか、新屋温泉へと続く道か…)
緑色の温泉として、温泉マニアに絶大な人気を誇る「新屋温泉」だが、ここしばらくは営業していないという話を聞いた。
コロナ禍のせいもあったらしいが、施設が老朽化し営業を続けるのが厳しいとも聞いた。このまま廃業してしまうとなれば、温泉好きとしてはとても残念だ。
(そういえば、この道はあそこへと続く道だったような…)
古い民家が並ぶ風景に、かつて何度も走った記憶が蘇ってきた。なにか妙に、ゾワゾワとした気持ちになっている自分がいた。
集落を過ぎ、やがて左右にりんご畑が広がると、標識が見えてきた。

「志賀坊森林公園」
岩木山ヒルクライムに参加していた頃、練習で何度かトライしたのが、この「志賀坊」の激坂だった。
大鰐の「ロイヤル激坂」に比べると、距離は短いけれど、勾配はハンパない激坂である。
ここ最近は全く走れてないし、今この坂を上るのは無謀だ。それにスニーカーだから引き足も使えない。
しかし標識を目にすると、ソワゾワは増幅し始めた。
とりあえず、坂のところまで行ってみよう。

激坂
写真では伝わりにくいが、目の前に現れた坂は立ちはだかる壁のようだ。
しかし、壁のような坂を目にして、ゾワゾワはピークに達した。
迷宮に引き込まれるように、私は坂を上り始めた。
ヴィンディングシューズではないので、引き足は使えない。
でもそれが良かった。ヴィンディングだと動きが止まった時に立ちゴケする危険があった。
スニーカーであれば、危険と思えた時にはいつでも降りれる。
最初の一直線は恐ろしく急である。
一直線であるから、迷宮という言葉は適切ではないが、まるで迷宮の道を走るように私は蛇行して上った。
一直線を数百メートルほど上り、景色が良く見えるところで一度ロードを降りた。
心臓はバクバクと音を立てていた。
スポーツドリンクをゴクゴクと飲み、再びトライ。
ここからは、九十九折のカーブが続いた。
左に曲がり、そして右に曲がると、その先にゴールの看板が見える。そんな記憶があった。
しかし、左に曲がり、そして右に曲がっても、その先に見えるのは再び左に曲がるカーブだった。
さらに、左に曲がり、そして右に曲がると、その先に見えるのはやはりまた左に曲がるカーブだった。
それを数度繰り返すと、視線の先に薄汚れた看板が見えた。
少し朽ちかけたその看板には、ゴールまでの距離が書いてあった。
「志賀坊森林公園まで あと450m」
よ、よ、450mとはまた、随分と中途半端な数字だ。300mでもなければ、500mでもない。
なんとなく力が抜けて、一旦ロードを降りた。
再度、スポーツドリンクを飲み、再々トライ。
あと450mだ。休まずに上るぞ。
カーブを右に曲がると、道はまっすぐになった。そしてその先に、公園の看板が見えた。
無心になって脚を回す。頭の中が白くなった。

志賀坊の頂上
「眼下に望む」という言葉のとおり、まさに眼の下に集落が見えた。
その先に平賀の街、そして弘前の街が見えた。さらに、その遠くに岩木山と青い空があった。
達成感に浸るというのでもなく、私は芝生に座りこみ、心臓のバクバクがおさまるのを待った。
何故、今ここにいるのか、よくわからなかった。
走ることに大した意味はない。激坂を上ることに哲学的な意味はない。
ほんの少し迷宮に脚を踏み入れた。それだけのことだった。
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