再会 / 『もしもし、奈良さんの展覧会はできませんか?』奈良美智展弘前 2002-2006 ドキュメント展 にて
「ママに会いに行こう」
受験を二日後に控えているというのに、ベッドでごろごろしている娘に声をかけた。
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昨年の10月、福井から友人が弘前を訪れた。
彼は、私が勤めていた店のショッピングバッグの製作を担当してくださった「黒川さん」という福井の方だった。
仕事上のお付き合いだったが、私が東京へ出張に行った折には、一緒に食事などをする友人のような存在だった。
その彼が、私が服屋を辞めるというのを聞いて、わざわざ弘前へ足を運んでくれた。
夜の酒の席で、「翌日どこを観光案内しようか」を話していたときに『弘前れんが倉庫美術館』の話題になった。
彼は現代アートに随分と興味があるらしく、「是非とも行ってみたい」とのことだった。
れんが倉庫美術館では、タイミングよく【奈良美智展 弘前 2002-2006 ドキュメント展】が開催されていた。
『もしもし、奈良さんの展覧会はできませんか?』といタイトルがついた、かつての『A to Z』を回顧する内容だった。
現代アーティスト「奈良美智」のことは、いまさらここに書く必要はないだろう。
少なくともこれをお読みになっている方々は、私よりも遥かに奈良作品について通じていると思うし、私のような人間が語るのは無謀である。
いや、芸術の鑑賞というものは、アートに通じていようがいまいが、誰であっても鑑賞をした後は、どんな批評をしようと自由である。
しかし、批評や感想を書きたいわけではないのだ。
翌日の朝一で、黒川さんと私は美術館へ向かった。
「奈良美智」については、弘前に住んでいる人であれば、およそ共通の感覚を持っているであろうことは想像に難くない。
なにせ、これだけ世界的に有名なアーティストなのだ。多くの人々がファンになるのは必然であろう。
だが、私の「奈良美智」に対する思いは、おそらく他の誰とも異なるものだった。
私は奈良さんとは直接面識があるわけではなかった。
ただ、建築家の前田アニキやアサイラムの浩さん、百石町展示館の畠山さんなど、日頃からお世話になっている多くの方が、『A to Z』展に関わっていた。
そして、昨年まで私が勤めていた店が『A to Z』展に協賛していた。確か会期中に会場でパーティがあって、DJをした奈良さんにTシャツを提供した記憶がある。
そして、その『A to Z』展に、亡くなった妻がボランティアとして参加していた。
2006年、市内のホテルで『A to Z』展の打ち上げが行われ、私は店の代表として参加していた。
ちょうど百石町展示館の畠山さんもいらしていたので、一緒に飲んでいた。
多くのボランティアが大盛り上がりするのを少し遠くから眺めていた。そのとき、畠山さんの隣にいたのが妻だった。
「3人でどこかへ飲みに行こうか?」と、私たちはパーティ会場を抜け出した。
それが妻との出会いだった。
黒川さんは、奈良作品を鑑賞しながら楽しそうにカメラに収めていた。
私は、かつての『A to Z』展を訪れていたし、県美での「奈良作品」を何度も鑑賞しているので、作品そのものは馴染みのあるものだった。
しかし、(今回は今までとは違う)という予感があった。そしてその予感は的中した。
会場の真ん中に、いくつもの記念写真らしきものが展示されていた。当時のボランティアの方々の写真だった。
私は、ふと、ある一枚の中に妻がいるような予感がした。そして、その一枚をじっくりと眺めていると、妻はそこにいた。
私は、少しの間、その写真を眺めていた。
やはり、あのとき、彼女はこの場所にいたのだ。
私は、少しの間、上の空になって、その写真を眺めていた。
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「この写真だよ」
娘に言うと、彼女はこないだの私と同じように、その一枚をじっくりと眺めていた。
「あ、いた」「明後日の受験のこと伝えておけよ」と言うと「うん」と、そっけない返事をした。
娘は、特に感動したような様子も見せなかったが、おそらくは彼女なりに何かを感じたに違いない。
そして、こうして会いに来た娘を見て、妻は空の上で何を思っただろうか。
(受験、頑張ってね。受かるといいね。)
そんなことを言うはずがない。
(受験なんて、高校なんて、学校なんて、大したことないよ。)
そう言って、ブラックニッカを飲んでいるに違いない。
それにしても、直接面識のない「奈良美智」ではあるが、奈良さんには感謝しなければならない。
「奈良美智」というアーティストが存在しなければ、大切な娘はここにいなかったのだから。
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