「寝台夜行列車」の思い出 / アンパンと牛乳
昨日の東京の雪はすごかった。
5cmほどの積雪予報であったが、結果的には都心部で23cm。津軽人から見てもりっぱな大雪である。一晩で20cm積もると、さすがに雪かきも大変だ。30cmを超えると、スコップは役に立たない。
交通が大幅に乱れ、帰宅困難者も出たようだし、転倒して怪我をされた方も随分いたらしい。
それでも北国とは違い、ドカ雪が2日、3日と続くことはほとんどなく、一夜限りで収まることが多い。
なので津軽人から見ると、なんとなくそのパニックめいた大変な一日を、ワイワイ騒ぎながら楽しんでいるかのように映ってしまう…あ、不謹慎な発言すいません。メディアの伝え方を、ついそんなふうに見てしまうのかも。
とりあえず、明日からの出張に大雪がバッティングしなくて助かった。いや、その明日から今季最大の寒波が北国を襲うらしい!はたして東京に行けるのか?行けたとしても、青森に帰って来れるのか?
出張といえば、飛行機か新幹線。それぞれ一長一短がある。
飛行機は時間を節約できるし、乗っている時間も1時間ほどなので、身体への負担も少ない。ただ、空港へのアクセスという面では少し面倒だし、なにより天候によっては欠航もあるのがマイナス要素だ。
新幹線は、3~4時間車中にいる分、拘束感はあるし身体も疲れるけど、中には寝ながら行けるとか、本を読むのにちょうど良いとか、その3~4時間をプラスに思う人もいるようだ。東京駅に着くので、アクセスも楽だし、運休になることは滅多にない。
私もどちらかといえば、新幹線が好きだ。弘前~新青森間も電車を使う場合は、車の運転がないので、新幹線内でグビグビやれるのも楽しみのひとつ(笑)
なので一人で出張のときは新幹線を使うことが多くなった。いずれにしても、便利な世の中になった。
20代の頃は、出張といえば、寝台特急の「夜行列車」だった。一泊二日ならぬ、二泊一日。
弘前を夜に出発して、夜行列車で寝て、翌日東京で仕事。そしてその日に夜行列車で帰るというスケジュール。これが普通だった。
今考えてみると、東京でまともに仕事ができるのか?というコンディションになりそうな出張だが、若いときは東京に仕事で行ける!というだけでテンションはガッツリ上がったものだ。

ルートは二つあった。
ひとつは青森まで行って、そこから「北斗星」などの寝台特急に乗って行く「東北本線」パターン。
もうひとつは弘前から「あけぼの」に乗って、12時間かけて行く「奥羽本線」のパターン。
「あけぼの」を使う場合は、弘前駅を19時前に出るので、仕事を早めに切り上げなければならなかった。しかも上野に着くのが朝6時半とかで、時間を潰すのが大変であった。だから、夜行列車を使うのは「東北本線」が多かった。
仕事を終え、自宅でシャワーをして21時ころに弘前駅へ。青森に着くと、0時頃発の「北斗星」まで時間があるので、駅前にある「一二三(ひふみ)食堂」に行く。そしてそこで「肉鍋定食」を注文する。それが常だったのだ。
仕事を終えた肉体労働の方々や、寝台列車まで時間のあるサラリーマンなど、お店は独特の雰囲気があって好きだった。いまはお店がきれいになったのかな。寝台が無くなってからは、行ったことがない。
「東北本線」の寝台は少しリゾート感もありキレイだった。9時すぎには東京に着くので、展示会を回るにはちょうど良かった。
しかし、夜行列車の思い出として残っているのは「奥羽本線」の「あけぼの」のほうだ。
修学旅行で乗った人も多いと思う。さすがに3段寝台ではなく2段であった。下の寝台になると見知らぬ人と向かい合って座ることになる。
たまーに若い女性だったりすることもあり、寝るまでの時間飲みながら会話したこともあったな〜。でも若い女性の場合は、すぐにカーテンを閉めてしまうことが多く、いつまでも飲んでるのはだいたいオッさんだった。
19時頃の出発だと、さすがにまだ眠くないのでカーテンを閉めて読書灯を点ける。ビールを飲みながら推理小説を読む。これがまた夜行列車の楽しみだった。
この「あけぼの」の夜行列車で忘れられない出来事があった。
あれは自分一人での出張に出た時のこと。季節はいつ頃だったかは覚えていない。
「あけぼの」は秋田を過ぎたあたりになると夜も遅いので、車内放送も朝までおやすみタイムになる。車内は延々とガタゴトと列車の音だけが鳴り響く。
慣れないと結構うるさく感じるものだ。音もそうだがかなり揺れる。新幹線とは大違いだ。
一番揺れるのが、出発の瞬間。列車同士の連結部が「ガシャン!」と音を立て揺れる。それで目を覚ましてしまうこともしばしばだった。
しかしその時はいつもと違っていた。
ふと夜中に目が覚めた。妙に静かだった。音がしないのである。揺れもない。
「あ、どっかの駅に停まってるんだな」
あの「ガシャン!」がいつ来るのか?とドキドキしながら目を閉じていた。しかし一向に「ガシャン!」は来ない。妙に心配になり眠れなくなった。
2時間ほどは起きていただろうか?寝台列車は動く気配がなかった。しかし未明ということもあり車内アナウンスはない。
次第に車窓から見える外の景色がうっすらと見えてきた。夜が明け始めたのだ。
どこかの少し寂れた駅のホームに停まっている。駅名は忘れたが、聞いたことのない駅名だった。どうやら新潟県内にいるようだった。
しばらくして夜も完全に明けた頃、車内アナウンスがあった。「奥羽本線」のこの先で土砂崩れがあり現在不通になっているらしい、とのことだった。回復のメドも立たないらしい。
我々乗客は、見たこともない田舎の駅に降ろされた。
夜明けの寂れた田舎駅に百人以上の人間が無言のまま、ひと塊りになっていた。その光景は明らかに異様であった。
しばらく待っていると、次々にタクシーがやってきた。
我々は順にまったく面識のない人同士、相乗りしてタクシーに乗った。新潟駅へ向かうようだった。
どのくらいの時間乗っていたのかは覚えていないが、車中は誰もが無言だった。寝ていたのかもしれない。
新潟駅に着くと、そのまま新幹線のホームへ誘導された。その頃、すでに上越新幹線は開通していた。一般の乗客とは別の改札口の方に案内され、改札を通る時に駅員さんから手渡されたものがあった。
「アンパンと牛乳」だった。
私はあまり乗ったことのない新幹線に乗り込み、窓側席に座った。そして高速で流れる外の景色を眺めながら、「アンパン」を食べ、「牛乳」を飲んだ。

現在ならコンビニの「おにぎりとお茶」だろうか。もはや刑事ドラマにも登場することのなくなった「アンパンと牛乳」だが、たまにコンビニでアンパンを買うときがある。
そのときは決まってこの「あけぼの」での苦い…いや甘い「アンパンと牛乳」事件を思い出すのだ。
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