骨折闘病記 ⑩ 「コロナ禍のリハビリ」
春先に新型コロナウィルスが拡大し始めた頃。
それまで私の勤める店は、第2第3の木曜日を店休にしていたが、毎週木曜日を店休とすることに決めた。
木曜日は燃えるゴミを出す日だ。
仕事が休みでも、6時半に起きて娘の朝飯を用意する。朝飯といってもたいしたものは作らない。前の日に買っておいたパンと卵焼きを出すくらいだ。
起きたばかりで、食欲がなさそうにゆっくりと娘が朝飯を食べている間にゴミを出す。早めに登校する小学校の子どもたちが、目の前の通学路を駆けていく。
しかし、先週と今週の木曜日は、9時頃にゴミを出していた。
もちろん、その時間には小学生は歩いていない。いや、正確に言えば朝の早い時間から、登校する子どもは誰一人いなかった。
弘前市内の小中学校は、2週間に渡って休校となっていたのだ。故に、中学生の娘はまだ布団の中にいた。
私も燃えるゴミを出した後は、少しだけ温もりの残る布団に身体を滑り込ませた。
夏休みでもなければ冬休みでもないこの10月の末、2週間もの休校。しかし、休校だからといって、どこかに遊びに行ける雰囲気は、この街にはなかった。
娘は10時近くまで寝ていて、起きてからはピコピコ。身体を動かすこともなく、夜までピコピコ。
さすがに、それは良くない。身体にも良くないが、目にも良くないし、脳にも良くない気がする。
ちょっと注意すると喧嘩になる。反抗期に訪れたコロナウィルス。社会環境も家庭環境も、誰もが経験したことのない、なんとも不思議な日々を過ごしている。
1ヶ月ぶりに左腕の診察をしてもらった。
手術後、固定されていた左腕の筋や腱はまだ硬さが残っており、少しひねったり、負荷をかけると痛みが走る。
しかし、それは回復の途中にある避けられない痛みであり、日々その痛みと付き合うことによって、左腕の可動域も広がってくる。毎日の暮らしの中で、確かにそれを感じることができる。
無意識のうちに左手で車のドアを開ける。右手だけで頭を洗っていたのに、知らぬ間に両手で洗っている。
でも、少しチカラを入れたときに痛みが走る。完全復帰まではまだまだなのだと、一日の中でも幾度となく再確認をすることになる。
「これからは、多少痛みがあっても以前の生活と同じように左腕を動かすようにしてみてください。ある程度は重いものを持ってもいいですから」
手術を担当してくださった I先生が言った。
弘前に新型コロナウィルスが感染拡大したことを受けて、通院によるリハビリも中止となった。
おそらくは、今後、回復するまでの間はひとりで地道にリハビリをすることになるだろう。
今夜もひとり黙々と左手首を左右にひねる。左右に回す。そして前後に倒す。
ひとり黙々と左手でグーを作る。脱臼した中指だけがグーを作れない。それでも黙々とグーを作る。
休校中の木曜日の夜。
注意したら、しぶしぶ宿題をやり始めた。しかし、自分の机で宿題をやることはない。
どういうわけか、私のベッドを占領して寝ながら宿題をやっている。いつもそうだ。

休校中の木曜日の夜。
ひとり黙々とリハビリをしている。
* 何年か後、今回のことを振り返るための備忘録として書いています。
( 前回のブログ → 骨折闘病記 ⑨ 「リハビリ」 )
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