ツール・ド・ツガル / 鰺ヶ沢〜北金ケ沢〜千畳敷
「何時頃、来れそう?」 鰺ヶ沢のK先輩からメッセージがあった。9月に予定している写真展のポスターのデザインを頼まれていた。
鰺ヶ沢の出身ということで、私もメンバーに名前を連ねていたが、毎月の集会にはほとんど顔は出せていない。ただ、写真展の運営には直接携わることになった。
まずは、ポスターとポストカードの作成。先輩とメールでやり取りしたが、細かいところまでは、どうもうまく伝わらない。そこで休みの日に鰺ヶ沢へ行くことにした。
しかし、せっかく西海岸まで行くのだから少し走ろうか。何か食べようか。温泉に浸かろうか。というわけで、いつものように車にロードを積んだ。
弘前周辺とは違い、鰺ヶ沢界隈の温泉はそれほど多くはない。いや、多くはないというか、自分にとって鰺ヶ沢の温泉といえば「山海荘」だ。なぜなら、私のルーツでもあるからだ。
「山海荘」には「ホテルグランメール山海荘」と「水軍の宿」の二つの温泉施設があるが、今回は「水軍の宿」に車を置かせてもらうことにした。
「水軍の宿」は、鰺ヶ沢駅のすぐ裏手にある。私が小学生だった頃、その辺りはほとんどが田んぼだったが、いまや(鰺ヶ沢にこんなにあってもいいのだろうか?)と心配になるくらい、多くのスーパーやドラッグストア、コンビニが並ぶ。
自分にとっては少々ピンとこない鰺ヶ沢の姿に背を向けて、私は海の方に向かって走り出した。国道101号を走り、海の駅「わんど」を過ぎると、昔ながらの鰺ヶ沢の光景になる。
海側の地域は、「目の前が海、背が山」と広い土地がないので、新たな施設は少なく昔の面影を残している。少々廃れているように見えるのは仕方がないが、とうに50を過ぎたオッさんには、この落ち着いた街並みにホッとするのである。
鰺ヶ沢の街並みが終わると、右手に日本海が見え始める。海岸沿いのまっすぐな道をひたすら走る。
鮎で有名な赤石川を通り過ぎると、やがて「深浦町」の標識。遠くに大きな弧を描く、海岸沿いの集落が見えてきた。『ロードバイクでツーリングをしながら津軽の写真を撮る』という私のスタイルを最初に決めさせた場所「北金ケ沢」だ。
「北金ケ沢」の集落は、1本の細い道沿いに、商店や家々が端から端まで並んでいて独特な雰囲気を持っている。
バイパスの方にコンビニはあるが、この昔からの通りに今時の商店はない。酒屋が少しだけコンビニの役目をしている雰囲気。パーマ屋。板金屋。カメラ屋。スナック。いろいろ。
さすがにカメラ屋はかなり前に店をたたんでいるようだった。
同じ通りに小学校もある。子供達がグラウンドに出て何かの競技をしていた。
その細長い通り沿いを走り続けると、五能線の線路がすぐ私の横に現れる。ここが私の一番好きな場所。
ロードバイクを立てかける。線路までは数十センチしかない。そして線路の向こうには、西海岸の小屋が並ぶ。朽ちかけているものもあるが、おそらく現役の小屋だ。
運良く電車が通らないだろうか…と思ったが、それは本当に運が良くなければならない、というほど、五能線の本数は少ない。
百メートルほど行くとトンネルがある。そこも好きな場所だ。二年前にもここを訪れた。列車が来るのを待ちながら、二時間近くもここに佇んでいたことを思い出した。
(2017年7月21日のブログ→「隔絶された120分 と 忘れられない一日」)
しかし、今日はそんなにゆっくりはできない。鰺ヶ沢に戻ったらすぐに先輩のところに行かねばならない。私は列車が来るのを待つことはなく、すぐにロードを走らせた。
「北金ケ沢」集落の最後の方に来ると、線路沿いに小さな飛行機が飛んでいた。何を書いているのかよくわからなかったが、よく見ると「リゾート白神」の通る時刻が書いてあるらしい。
「その時間は危ないから気をつけて」ということなのだろうか。しかし、その書かれてある時刻は、薄れてよく見えなかった。
ロードバイクで走りながら、自分が生まれ育った西海岸を撮り歩く。そのような自分のスタイルを作ってくれたこの集落を走る時は、せつないような、しかしほっと落ち着けるような、不思議な気持ちになるのだ。
そして、走りながら無口になる。もちろん、一人で走っているのだから、誰とも会話をすることはないのだが、心の中の自分との会話もない。
しばらくは無口になって海岸沿いを走る。
やがて、視線の向こうに奇岩が現れた。無口だった私の心は、急に何かから解放されたような気持ちになる。脚が軽やかに回る。
これも「千畳敷」の持つ魅力のひとつかもしれない。
しかし、さらに「千畳敷」の魅力、いや魔力に圧倒されることになるとは、知る由もなかった。
(次回へ続く→ 豪快すぎる「千畳敷のおかちゃ定食」 / 千畳敷 『食堂・民宿 田中』)
コメントを残す